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再会│おかえりの前に
翌朝、服を着替える。畳んだ服をキャリーケースにしまう。嵐が前に買った凪の首輪を出していると、凪はそれに付け替えていた。
古い首輪を外したまま、凪はそれを掌に乗せている。ただ見ているだけのはずなのに、指先だけがゆっくり動いていた。縁をなぞる。確かめるように、何度も。
嵐は手を止めたまま、その様子を見ていた。
それはもう使わないものだ。新しいものがある。なら、迷う理由はないはずだった。だが凪は、すぐには置こうとしない。
「それ、どうする」
声を掛けると、凪の肩が小さく跳ねる。気付いていなかったのかと嵐は思う。凪はしばらく答えなかった。指先だけが、まだそこに残っている。
やがて、凪はそれをゆっくりと机の上に置いた。
「……置いていきます」
そう静かに言い切る。だが、指は離れない。凪は一度だけ腹を見た。ほんの一瞬だったが、その視線の意味が嵐には掴めない。
なぜ今、それを見る。
そんな問いが浮かぶ。けれど言葉にはしなかった。代わりに、凪の手元に視線を戻す。
細い指が、金具の部分に触れている。留め具を確かめるように、なぞる。外したばかりのはずなのに、まだ温度が残っているように見えた。
やがて、その指がようやく離れる。完全に、手放す動きだった。嵐はそれを見届けてから、キャリーケースのファスナーを閉める。
なにか言うべきかと思ったが、言葉は出なかった。代わりに浮かんだのは、単純な確認だった。
本当に、それでいいのか。
だが口にはしなかった。
ㅤそれを言えば、引き戻すことになる気がした。
キャリーケースを持って二人で外に出ると、旅館の前には夏樹がいた。エンジンはかけたまま、片手をポケットに突っ込んで、もう片方で鍵を弄んでいる。
ㅤ待っていたのがわかる立ち方だった。夏樹はスカジャンを着て、二人を見てにっと笑う。
「まだ時間大丈夫だろ? せっかくだし、みんなで写真撮ろうぜ。色んな人に見せるやつじゃないやつ」
ㅤ夏樹がそう声を掛けてくる。嵐は凪を見る。凪は、こくりと頷いた。
三脚が立てられる。女将と祖母も、自然にそこへ並んだ。
「なぎっち、もう少しこっち」
凪がわずかに足を動かす。その隣に、嵐が立つ。
肩が触れるほどでもない、けれど離れてもいない距離。
誰も、なにも言わない。
「撮るぞ〜」
そんな声と同時に、夏樹がボタンを押す。そのあいだに夏樹が素早く駆け寄って、凪の隣に並んだ。やがてシャッターが落ちる。
もう一度、同じ音がする。
夏樹がスマートフォンを回収して、またにっと笑う。
ほどなくして、スマートフォンが震えた。
送られてきた画像を開く。
五人が並んでいる。その中央で、凪の腹だけが、はっきりと形を持っていた。
しばらくしてから、嵐はそれを無言で保存した。
それから一拍置いて、明日香に転送する。説明文はつけなかった。
「お世話に、なりました」
凪がそう頭を下げると、女将がはっきりと表情を崩す。そして凪の肩に手を置いて、柔らかい声で言った。
「またいつでもおいで。今度はゆっくりしな」
ㅤその声に、商売の響きはない。ただの見送りだった。まるで、本当の母親のような。
「はい」
凪は頷いた。
駅までの道を、夏樹が車で送ってくれる。二人とも後部座席に乗せられた。エンジンがかかり、車が動き出す。女将と祖母の姿が小さくなっていく。お互い、手を振らずにじっと見つめている。
ㅤ彼女たちの姿が見えなくなるまで、凪はそうしていた。
道中、夏樹は静かだった。代わりに音楽が流れ出す。なんのアーティストかはわからない。男性のやわらかく温度のある声が、生の尊さを歌っている。いい曲だな、と思った。嵐は一度だけ目を閉じた。
……終わった。
そう思ったのは、由布院での時間か、それとも探す側だった時間か、自分でも判別がつかなかった。
ふと、音が混じる。小さく鼻を啜る音が聞こえた。目を開ける。隣の凪は静かに窓の外を見ている。前に視線を向けると、バックミラー越しに夏樹と目が合う。
ㅤその目は少しだけ、赤くなっていた。
「体に気を付けろよな。また遊びに来いよな」
「うん。ありがとう、夏樹」
言葉のあと、間があった。夏樹は一度だけ視線を逸らして、それから勢いをつけるみたいに前に出る。
そのまま、凪を抱き締めた。一瞬体が出そうになって、嵐は留まる。
「わっ」
凪が小さく声を上げる。夏樹の腕の中で固まって、それからどうしていいかわからない様子で、ぎこちなく手を浮かせている。
嵐は数秒、それを見ていた。引き剥がすほどでもない。だが、放置も違う気がした。嵐がいつ引き剥がすか様子を見ていると、凪の視線がこちらに向く。言葉はない。だが意味は十分だった。嵐は一歩だけ距離を詰め、強くはない力で夏樹の肩に手を掛けて引く。
「……そのへんにしておけ」
低く言うと、夏樹は「あ」と小さく声を漏らして手を離した。凪が一歩下がる。呼吸が少しだけ乱れている。
夏樹は鼻を啜って、それから照れ隠しみたいに笑った。
「いいって。弟ができたみたいで楽しかったし。……じゃあ、またな」
ㅤ軽い言い方だった。だが、最後だけほんの少しだけ声が掠れていた。
「ありがとう、夏樹」
「世話になったな」
嵐は短く返す。それ以上は足さなかった。トランクからキャリーケースを下ろす音が、やけに大きく響いた。
ㅤ改札へ向かう。振り返ると、夏樹がぶんぶん手を振っていた。大きく、子どもみたいに。朝陽を背にして、金髪が光っていた。その輪郭が少しだけ滲んで見えた気がしたが、嵐はそれ以上確かめなかった。
列車到着のアナウンスが流れる。ゆっくりと前を向くと、凪がこちらを見ている。
さっきより、少しだけ静かな目だった。
「……行こう」
「はい」
短く言葉を交わして、嵐は歩き出す。
凪も遅れずについてくる。
今度は、振り返らなかった。
ㅤ博多行きの特急に乗り、凪を窓側に座らせる。車窓を流れてゆく山々を、凪が眺めている。水族館で、クラゲの水槽に張り付いていた姿が、ふと重なった。
同じ目だと思う。外を見ているのに、どこか内側に沈んでいる。
「なにか、面白いものでもあるか」
ㅤそう聞くと、ふと凪が外を指差す。
「あれ、由布岳って言うらしくて」
「そうか」
「……富士山じゃない、です」
凪はそう、教えてくれる。なぜその比較になるかわからない。けれどきっと、凪の中に山は一つしかなかったのだろう。嵐はそれ以上は聞かず、もう一度「そうか」と頷いた。
博多に到着する。駅で軽く食事をして、新幹線に乗り込む。乗ってからしばらくして、凪がうとうとし始める。
「寝ていろ。ついたら起こす」
「嵐さんは、眠くないですか」
「俺は平気だ」
そう答える頃には、凪はもう半分眠っていた。そのうち、完全に力が抜け、寝息が聞こえてきた。
嵐はそのまま、しばらく動かなかった。凪の寝顔ばかりを見つめていた。やがて、凪が目を覚ます。
しばらくして、窓の外に大きな山が現れる。凪が小さく「あ」と口にする。
「……大きいです」
「そうだな」
「もしかして、あれって」
「ああ。富士山だ」
それだけの会話だった。
ㅤしばらくして、嵐はスマホを取り出し、カメラアプリを起動する。それから、外の景色に向ける。山の輪郭と、流れていく空が車窓をフレームにしてスマホの画面に映る。そのまま数枚、撮る。
その動きに気付いて、凪がわずかに身を引いた。画面に入らないように、背もたれに身体を寄せている。
嵐はそのままもう一枚撮ってから、言う。
「お前も入れ」
「いいんですか」
「記録だ」
凪は座ったまま、嵐を見る。今度は、凪も画面に入る位置でシャッターを切る。特別なポーズはない。
ただ、そこにいるだけの構図だった。
何度か撮るが、手元が安定しない。夏樹のように上手く撮れない。ブレてしまう写真に、嵐は思わず眉を寄せる。
「……もう一回だ」
ㅤそうこうしているうちに、嵐と凪のやり取りを見ていたらしい老夫婦が立ち上がり、嵐に声を掛ける。
「あの、写真、撮りましょうか」
近くの人がそう言ってくれる。
「……お願いします」
「撮りますよー。はいチーズ!」
カシャ、とスマホが音を立てる。
「……ありがとうございます」
ㅤそう礼を言って、嵐はスマホを受け取る。背景には富士山が入っていて、嵐の隣では凪がカメラを見ている。
作った表情ではない。ほんの少しだけ、笑っているように見えた。力の抜けた、どこか安心したような顔だった。
嵐はなにも言わず、誰にも共有しないまま、保存する。
フォルダを一つ開いて、そこに入れた。
それ以上は、なにもしなかった。
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