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幕間│おかえり
「ここで待っている」
品川に着いた時、凪をトイレに向かわせる。その背中が人波に紛れて見えなくなるのを確認してから、嵐はポケットのスマホを取り出した。
着信履歴には、夏樹の名前が並んでいる。何事かと思った嵐は折り返す。
『お、やっと出た』
「なんの用だ」
『なーこれ凪っちの忘れものじゃねー? 首輪』
その単語に、思考が一瞬だけ止まる。あれか、とすぐに思い出す。
「凪が置いて行ったものだ」
意図的にそう言うと、夏樹が不思議そうな声を上げる。
『え……置いてったの?』
「ああ。凪がそう言った」
嵐はそう事実だけを返す。だが、次の一言で流れが変わる。
『……大事なもんって言ってたぞ。なんか、お母さんがくれたとか……』
そこで、ようやく嵐の中で繋った。
あれは、単なる「道具」じゃない。ましてや、誰かに付けられていた記号でもない。
唯一、凪が持っていた過去。
――母親の。
嵐は言葉を失う。
「あ――」
前に、自分はそれを外させた。見ていて不快だと判断して、価値の基準を、勝手に置き換えた。
『もしもーし』
夏樹の声に、現実に引き戻される。嵐は短く息を吐いた。
「わかった。……送ってくれ。着払いでいい」
即答だった。迷いはない。
これは、処分でも、代替されるでもない。残すべきものだ。
『りょ』
そして通話が切れる。嵐はそのまま、チャットで夏樹に住所を送る。そして、すぐにスタンプが返ってくる。妙に軽い、ふざけたキャラクターのスタンプだった。
それを一瞥して、画面を閉じた嵐はスマホをポケットに戻す。
視線を上げると、人の流れが動いている。凪はまだ戻っていない。
ㅤ嵐はその場で、静かに待った。
凪が構内のトイレから出てきたのを見つけて、嵐は歩み寄る。
「行くぞ」
「はい」
ㅤ凪が頷く。けれどすぐに、その足が止まった。
「……凪?」
改札の手前、人の流れの中で、凪だけがそこに取り残されたように立ち尽くしていた。
「どうした」
声を掛けても、凪は反応しない。視線だけが、どこか一点に縫い付けられている。嵐はその先を追う。スーツの男が何人も、足早に通り過ぎていく。そのうちの誰かかと目を凝らすが、特別目立つものはない。
ㅤしばらくして、嵐は「違う」と小さく零した。視線の先に理由があるのではなく、凪の内側でなにかが起きている。
凪の呼吸が浅くなっているのに気付く。肩が、わずかに震えていた。
「凪」
強めの声で名前を呼ぶと、ようやく凪の視線が揺れた。
「……あ」
小さな声が漏れる。遅れて嵐の方を見る。その目が、明らかに怯えている。揺れているその瞳の前に立ち、嵐は凪の顔を覗き込んだ。
「誰だ」
短く問う。凪は首を振る。否定なのか、答えられないのか、判別がつかない。だが一つだけ、頭の中に浮かぶものがあった。背中の毛が一斉に逆立つ。
「見間違いか?」
そう続けると、凪は数秒経ってからこくりと頷いた。だがその動きは不自然で、納得していないことは明らかだった。
嵐は凪の視線の先をもう一度見る。さっきまでいたはずの位置には、もう誰もいない。人の流れが、すべてを押し流していた。
舌打ちが、今度は抑えきれなかった。
「……行くぞ」
短く言って、嵐は凪の手を引く。凪は、逆らわなかった。
改札を抜ける。人の波から外れた途端、凪の呼吸が少しだけ戻るのがわかった。
「……今日は、寄り道はしない。まっすぐ帰る」
それだけを決めて、嵐は言った。凪は小さく頷く。だがその頷きは、さっきよりもわずかに遅れていた。
嵐はそのことに気付かないふりをして、再び歩き出す。
握った手だけは、離さなかった。
ㅤまだ、終わってない。なにもかも。
停めていた車を出す。ブランケットは、もういらない季節になっていた。それでも嵐は、それを凪の膝に乗せた。凪はうつむいたままだった。
家に帰る頃には、夜になっていた。家に入って、明かりを付ける。お世辞にも綺麗とは言えない、少し荒れた部屋が目に入る。凪が動く前に片付けをしなければいけないと嵐は思った。そして嵐は凪の腹を見る。
これから、必要なものをもっとそろえなければ。
ㅤ凪が中に入って、嵐を見上げている。膨らんだ腹が見える。あの時とは違う。
「……ただいま、です」
ㅤけれど、その声は同じだった。
「ああ。……おかえり」
ㅤ嵐は凪の背中に手を添え、そう言った。
ㅤ心做しか、その手は震えていた。
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