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体温│小さな未来

 週末、嵐が車のキーを手に取った。いつもの定期健診だと理解した凪は荷物を整理して、鞄を持って車に乗る。  待合室に座る。隣には嵐がいる。それだけで、不思議と呼吸は整った。  名前を呼ばれ、嵐と一緒に診察室に入る。問診を終えてベッドに横になると、腹に冷たいジェルが塗られた。モニターに白黒の影が映る。 「順調ですね」  医者の声がする。凪はほっと息をついた。 「女の子で間違いなさそうです」  そのまま、診察は終わった。病院を出ると、あたたかい風が吹いていた。  歩きながら、凪はさっきの言葉を思い返していた。  女の子。  今までそれとなく避けていた性別を、凪はここでようやく認識する。  生まれてきたら、どんな顔をするんだろう。誰に似るんだろう。ふと、考えてしまう。  もし、この子が―― 「……っ」  そこで思考が止まった。  ……だめだ。  この子は、ちゃんとここにいるのに。そんなことを考えるなんて。  それでも、頭の奥に浮かんでしまう。  ――嵐さんとの、子供だったら。  息が詰まって、思わず立ち止まった。 「どうした。大丈夫か」  顔を上げると、数歩先で嵐が振り返っていた。 「い、いえ……大丈夫です」  凪が追い付くと、嵐はまた歩き出す。けれど歩幅だけが、少しだけゆっくりになっていた。  その時、腹の中で、ぐに、と小さく動く感覚がした。  健診のあとで向かったのは、大きな商業施設だった。人の多さに、凪は一瞬だけ足を止める。 「行くぞ」  嵐が先に歩く。凪は一拍遅れて、その後を追った。  入ったのは、子ども用品のフロアだった。凪の足が、そこで完全に止まる。視界には、色とりどりの服に、靴やおもちゃが並んでいる。どれも小さくて柔らかそうで、現実味がないほど綺麗だった。  その時、少し離れたところから笑い声が聞こえた。  なんとなくそちらを見る。若い夫婦らしい二人が、ベビー服を前にして笑っていた。会話までは聞こえない。けれど楽しそうだった。凪は、しばらくその光景から目が離せなかった。  ――普通って、こういうものなんだろうか。  そう思った瞬間、自分がなにを見ていたのか気付いて、慌てて視線を逸らす。するとすぐ隣に立っていた嵐と目が合った。 「どうした」  低い声に、凪は小さく肩を揺らす。 「なんでもないです」  嵐はそれ以上追及せず、子ども服の棚へと視線を戻した。 「触ってみろ」  差し出された小さな服に、凪は少し迷ってから手を伸ばす。凪は一瞬迷ってから、その服に手を伸ばした。 ㅤ指先で布を摘まむと、柔らかさと、軽さが伝わってくる。ほんのりあたたかさも感じた。それを持ち上げることもできず、凪はただ触れる。 ㅤそっと手を離したあと、凪は指先を静かに擦り合わせた。 「……女の子なら」  ふと、嵐の低い声が聞こえた。嵐は続ける。 「髪を結ぶ練習はしておいた方がいいな」  凪は思わず顔を上げる。 「……え」 「できないと困るだろう」  嵐はそれだけ言って、また別の服を手に取った。凪はしばらく黙ったまま、自分の腹を見下ろした。  ――本当に、やるつもりなんだ。  さっき見た夫婦の姿と、嵐の言葉が胸の中で重なる。  この子の髪を結ぶ未来を、嵐はもう考えている。  言いようのないノイズが、凪の胸に沸き起こる。  ……変だ、と思った。  だって、この子は違う。そういうのじゃない。  でも、不思議と嫌じゃなかった。  小さい服を抱え、会計を済ませて外に出る。袋のほとんどを、嵐が持っていた。  帰宅後、買ったベビー服や肌着を二人で広げる。  凪は小さい靴下を見る。自分の指の数本しか入らない。 「……こんなの、入るんですね」  嵐が隣で言う。 「最初だけだ」  凪は小さな靴下を両手に乗せたまま、少しだけ笑った。 「すぐ、履けなくなるんですね。……ちょっともったいないです」 「気にするな。ブランケットやぬいぐるみにリメイクする方法もある」 「……調べたんですか」 「お前ならそう言うと思ったからな。……当たったな」 「ずるいです」  言ってから、自分が笑っていたことに気付く。けれど次の瞬間、お腹の奥でぐに、と動く感覚がした。いつもより活発で、少し痛い。お腹に手を当てると、嵐がふと凪を見た。 「……動いているのか」  確認するみたいな声がして、凪は小さく頷く。 「今、ちょっと」  そう言うと、嵐の手が凪の腹に触れた。それから、わずかに位置を変える。探るような動きにくすぐったさを覚えたつかの間、数秒。  静かな時間が過ぎる。 「……今だな」  低く言う。凪には、はっきりとはわからない。それでも、確かになにかを捉えているらしい。嵐は一度手を離して、それから少しだけ身をかがめる。 「いいか」  嵐にそう問いかけられた凪は一瞬迷って、それから頷いた。そのまま、嵐はお腹に耳を当てる。なにか聞こえるのだろうかと不思議に思ったのもつかの間。 「……あ」  嵐は小さくそう声を上げて、凪の腹からそっと耳を離した。確かめるようにもう一度だけ手のひらで腹を撫でてから、なにもなかったように体を起こす。 「動いたな」  それだけ言って、嵐は買ってきたベビー服の方へ視線を戻した。いつも通りの顔だった。けれど凪の胸はずっとそわそわしたままだった。  腹に残っているのは、胎動の感触だけではない。嵐の手の温度と、耳を当てられた時の重みが、まだそこに残っている気がした。  凪は自分の腹に触れたまま、ぼんやりと嵐を見る。  さっきの姿が、頭から離れなかった。真剣な顔で、小さな命の気配を探っていた嵐。その横顔が、妙に優しく見えた。  今の、まるで、普通の――  お父さん。  気付けば、凪はぽつりと口にしていた。 「……嵐さん、子ども、好きなんですか」  嵐の手が止まる。  しまった、と思った時にはもう遅かった。凪は慌てて視線を逸らす。 「い、いえ、その……なんか、慣れてるみたいで」  言い訳みたいに続けた声は、自分でも情けないぐらい小さかった。  しばらく返事はなかった。  怒らせただろうかと不安になって顔を上げかけたその時、嵐の手がふいに凪の顎に触れた。 「……っ」  驚いて視線がぶつかる。  近い。思ったよりずっと近くに、嵐の顔があった。 「慣れてるわけがない」  低い声が、静かにそう告げる。 「……お前が初めてだ」  その意味を理解するより先に、凪の呼吸が止まった。  嵐は凪の反応を確かめるみたいに、ほんの数秒だけ視線を合わせていた。それから、逃げる隙も与えないくらい自然に、そっと唇を重ねた。  触れるだけのキスだった。  けれど凪の心臓は、胎動よりも強く、どくんと跳ねた。 「ん……」  やわらかい。  由布院の時と、同じだと思う。凪は目を閉じる。胸に思い浮かぶのは今度こそ、と言う感情だ。  あの時は、なにもできなかった。ただ受けているだけだった。  けれど今度は、違う。  凪はぎこちなく唇を動かした。静かな部屋で、唇同士が触れる。  その瞬間だった。  ――上手くなったな。  嵐の声ではないその一言で、身体が凍った。  頭の奥で、記憶が重なる。逃げ場のなかった距離で囁かれた、笑いを含んだ声。少し疲れた、凪の動かない唇。 「……っ!」  気付いた時には、凪は嵐の胸を突き飛ばす勢いで押していた。距離が空いて、ようやく息が入る。 「あ……」  呼吸が整わないまま、視線だけが彷徨う。嵐は追いかけてこなかった。 「……無理するな。合わせなくていい」  低い声で、なんでもないように言う。 「無理、してません……」  反射みたいにそう返す。けれど嵐はなにも言わず、ただ静かに凪を見ていた。

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