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体温│無くした言葉の行方
あれから、凪はまた考えた。子どもが産まれたあとも、生きていくためのことを。
「勉強、します」
凪はそう言って、ソファから立ち上がった。嵐は本から顔を上げる。
「そうか」
それだけだった。頷いて、凪は書斎に入る。教科書もノートも、そのままだった。捨てられてないことに凪は一瞬驚いて、静かに手に取った。
それからリビングに戻る。ダイニングテーブルに座って英語のノートを開こうとした時、凪は誕生日のメッセージカードをここに隠したことを思い出した。早く見付からないように捨てなければ。そう思ってノートを開く。
「あれ……?」
ㅤそこにあるはずのものがなかった。二つ折りにして、ここに挟んでいたはず。もしかしてと思った凪は、嵐を一瞥する。
「あの……」
ㅤ嵐に声を掛けながら、ノートを見せる。
「ここに、その……」
「ああ。これか?」
ㅤ嵐がなにかに気付いたように顔を上げ、そして自分の財布を持ってくる。中を開け、そこに入っていた紙を広げる。不格好なアルファベットが並んでいる。思わず顔が熱くなる。
凪は目を見開いて、嵐の手元を指差した。
「な、なんで持ってるんですか」
指が少し震える。だがなんでもないことのように、嵐はメッセージカードを見る。
「俺のだ。俺がもらった」
ㅤ嵐はあっさりと言う。言葉の通り、返してくれそうな気配はない。凪がまごまごしていると、嵐がふっと表情を崩した。
「……ありがとう」
ㅤそして、そんな声が聞こえた。
凪は思わず顔を上げる。意味が、わからなかった。
嵐は広げたカードを一度だけ見て、それから財布に戻す。そして、当たり前みたいにしまう。ファスナーを閉めたあと、彼は財布の表面をそっとなぞる。それを見て、凪はなにも言えなくなった。返してほしいのかどうかも、わからなくなっていた。ただ、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
「そんな、大したものじゃないです……」
気付けば、そんな言葉が口を突いて出る。嵐が一瞬だけ視線を向け、それから目を細めた。
「俺が決める」
それだけ言って、凪を見る。
「先に風呂、入ってくる」
そして立ち上がってそう言った。凪がなにか言い返す間もなく、嵐はいつも通りに風呂場に向かう。
「あ……」
ㅤ凪は静かになった部屋で、静かにノートを開いた。破り取ったノートのギザギザの跡を目にしながら、シャーペンを持つ。単語を書き写す。bとdを逆で書かないように、気をつける。手が、静かに動く。でも少しだけ、意識がそっちに引っ張られる。
財布にしまわれた、折り畳まれたメッセージカード。
捨てるはずだったものなのに、嵐の手に渡っている。受け取ってもらえた……ということで、いいのだろうか。
さっきまで考えていたことが、頭の中に残っている。
どうして、ありがとうなんだろう。
「俺のだ」って、なんなんだろう。
わからない。けれど、嫌ではなかった。
凪は足の爪先をぎゅっと丸めた。
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