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体温│ベビーベッド

 数日後、インターホンが鳴った。  凪は反射的に立ち上がる。けれど玄関へ向かう途中で、嵐に言われたことを思い出した。 『配達が来ても出るな』  凪は足を止める。 『玄関前に置いてもらう。お前は中に入れるだけでいい』  そう言われていた。少し待つと、玄関の向こうからなにか物音がして、やがて気配が遠ざかる。  そっと扉を開けると、そこには大きな段ボールが置かれていた。 「……おおきい」  思わず呟く。伝票にはベビーベッドと書かれていた。  凪はそれをしばらく眺める。どうしようか迷ったあと、ゆっくりと段ボールを押した。  重い。けれど、動かないほどではない。  少しずつ床を滑らせるようにして、寝室まで運ぶ。何度か息を整えながら、どうにか壁際へ寄せた。  終わった頃には額に汗が滲んでいた。けれど不思議と嫌な気はしなかった。ここに置くものだと思うと、それだけで実感が湧いた。  その日の夜。 「おかえりなさい」 「ああ。ただいま」  仕事から戻った嵐は、ジャケットを脱ぎながら部屋へ入る。  その時、ふわりと甘い匂いがした。凪は思わず顔を上げる。  どこかで嗅いだことがある。少し考えて、思い出した。明日香の香水だった。婚約者だった人の匂い。一度しか会っていないのに、覚えている。  凪は言いかけて、けれどなんと言葉にしていいかわからなかった。  嵐はネクタイを緩めながら寝室を覗き、ふと足を止める。 「……凪」  低い声だった。凪の返事が少し遅れる。 「はい」 「運んだのか」  視線の先には、寝室に運んだ段ボールがあった。凪は小さく頷く。 「玄関に置いたままだと邪魔だと思って……」  言い終わる前に溜息が聞こえる。 「俺はなんと言った」  責める声ではない。けれど機嫌が良いわけでもなさそうだった。  凪は俯く。 「出るなって……」 「そのあとだ」 「……中に入れるだけでいいって」 「ああ。寝室まで運べとは言ってない」  凪は返す言葉を失う。怒らせたという焦りが一瞬通り過ぎる。けれど嵐は再び溜息を吐いただけだった。 「腹が張ったらどうする」 「……勝手にしたのは悪かったです」  凪は俯いたまま言う。 「でも、やりたかったんです。この子のことだから」  言ってから、しまったと思った。でも嵐は殴らなかった。 「……体には気を付けろ」  その声は不機嫌そうなのに、どこか困ったようでもあった。  凪は小さく頷いた。 「……はい」  嵐はもう一度だけ段ボールを見て、それ以上はなにも言わなかった。 ㅤ寝室からは金具の音や、木の擦れる音が聞こえてきていた。規則的な動きに合わせて、部屋の中の空気が少しずつ整っていく。  嵐が、寝室で届いたベビーベッドを組み立てている。凪は少し離れたところから、その様子を見ていた。ネジを締める音、木と木が合わさる音。その一つ一つが、現実だった。  やがて、それが形になる。完成したのは、小さなベッドだった。柵がついていて、まだなにも入っていない。嵐は最後に軽く揺らして、強度を確かめる。そして問題ないと判断すると、そのまま壁際へと押しやった。 「とりあえず、ここでいい」  寝室から出てきた嵐は短くそう言う。凪は静かにそれを見る。部屋の一角に置かれたそれは、まだ場違いなほど静かで、けれど確かにそこにあった。  ベビーベッドを置くと、もう布団を敷く場所はなかった。 「……もしかして、ベッドで寝るんですか」 「ああ。今日から一緒だ」 「……っ」  凪はそっとソファへ毛布を持っていこうとする。けれどその途中で、背後から声が飛んだ。 「嫌なのか」  びくりと肩が跳ねる。 「おれ、たぶん、寝相悪いです」  しどろもどろにそう言うと、嵐は少し眉を寄せた。 「知ってる。ソファの方がよっぽど狭いだろ。腹も大きいんだ、変な寝方するな」 「でも……」 「来い」  短く言われる。凪は毛布を抱えたまま立ち尽くした。  嵐はそれ以上急かさなかった。ただ当然みたいに寝室へ戻っていく。  凪は少し迷ってから、その後を追った。  ベッドへ入る。凪はなるべく邪魔にならないよう、端へ寄った。端の方ぎりぎりまで身体を縮こめる。嵐に触れないように、静かに息を潜めた。  けれどしばらくして、隣から低い声がする。 「そんな端で寝るな。落ちるだろ」  次の瞬間、嵐の腕が伸びてきて、凪の身体を引き寄せた。 「っ……」  凪の身体が強張る。嵐の腕が背中に回る。熱くて、近い。けれど、それ以上なにかしてくる気配はなかった。 「……嵐、さん」 「寝ろ」  それだけだった。  凪はしばらく目を開けたまま、暗い天井を見つめる。隣から、嵐の呼吸が聞こえる。規則的で、静かだった。  それからも、嵐は相変わらず食事を作り、仕事に行き、凪と一緒に眠った。

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