71 / 86
体温│ベビーベッド
数日後、インターホンが鳴った。
凪は反射的に立ち上がる。けれど玄関へ向かう途中で、嵐に言われたことを思い出した。
『配達が来ても出るな』
凪は足を止める。
『玄関前に置いてもらう。お前は中に入れるだけでいい』
そう言われていた。少し待つと、玄関の向こうからなにか物音がして、やがて気配が遠ざかる。
そっと扉を開けると、そこには大きな段ボールが置かれていた。
「……おおきい」
思わず呟く。伝票にはベビーベッドと書かれていた。
凪はそれをしばらく眺める。どうしようか迷ったあと、ゆっくりと段ボールを押した。
重い。けれど、動かないほどではない。
少しずつ床を滑らせるようにして、寝室まで運ぶ。何度か息を整えながら、どうにか壁際へ寄せた。
終わった頃には額に汗が滲んでいた。けれど不思議と嫌な気はしなかった。ここに置くものだと思うと、それだけで実感が湧いた。
その日の夜。
「おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
仕事から戻った嵐は、ジャケットを脱ぎながら部屋へ入る。
その時、ふわりと甘い匂いがした。凪は思わず顔を上げる。
どこかで嗅いだことがある。少し考えて、思い出した。明日香の香水だった。婚約者だった人の匂い。一度しか会っていないのに、覚えている。
凪は言いかけて、けれどなんと言葉にしていいかわからなかった。
嵐はネクタイを緩めながら寝室を覗き、ふと足を止める。
「……凪」
低い声だった。凪の返事が少し遅れる。
「はい」
「運んだのか」
視線の先には、寝室に運んだ段ボールがあった。凪は小さく頷く。
「玄関に置いたままだと邪魔だと思って……」
言い終わる前に溜息が聞こえる。
「俺はなんと言った」
責める声ではない。けれど機嫌が良いわけでもなさそうだった。
凪は俯く。
「出るなって……」
「そのあとだ」
「……中に入れるだけでいいって」
「ああ。寝室まで運べとは言ってない」
凪は返す言葉を失う。怒らせたという焦りが一瞬通り過ぎる。けれど嵐は再び溜息を吐いただけだった。
「腹が張ったらどうする」
「……勝手にしたのは悪かったです」
凪は俯いたまま言う。
「でも、やりたかったんです。この子のことだから」
言ってから、しまったと思った。でも嵐は殴らなかった。
「……体には気を付けろ」
その声は不機嫌そうなのに、どこか困ったようでもあった。
凪は小さく頷いた。
「……はい」
嵐はもう一度だけ段ボールを見て、それ以上はなにも言わなかった。
ㅤ寝室からは金具の音や、木の擦れる音が聞こえてきていた。規則的な動きに合わせて、部屋の中の空気が少しずつ整っていく。
嵐が、寝室で届いたベビーベッドを組み立てている。凪は少し離れたところから、その様子を見ていた。ネジを締める音、木と木が合わさる音。その一つ一つが、現実だった。
やがて、それが形になる。完成したのは、小さなベッドだった。柵がついていて、まだなにも入っていない。嵐は最後に軽く揺らして、強度を確かめる。そして問題ないと判断すると、そのまま壁際へと押しやった。
「とりあえず、ここでいい」
寝室から出てきた嵐は短くそう言う。凪は静かにそれを見る。部屋の一角に置かれたそれは、まだ場違いなほど静かで、けれど確かにそこにあった。
ベビーベッドを置くと、もう布団を敷く場所はなかった。
「……もしかして、ベッドで寝るんですか」
「ああ。今日から一緒だ」
「……っ」
凪はそっとソファへ毛布を持っていこうとする。けれどその途中で、背後から声が飛んだ。
「嫌なのか」
びくりと肩が跳ねる。
「おれ、たぶん、寝相悪いです」
しどろもどろにそう言うと、嵐は少し眉を寄せた。
「知ってる。ソファの方がよっぽど狭いだろ。腹も大きいんだ、変な寝方するな」
「でも……」
「来い」
短く言われる。凪は毛布を抱えたまま立ち尽くした。
嵐はそれ以上急かさなかった。ただ当然みたいに寝室へ戻っていく。
凪は少し迷ってから、その後を追った。
ベッドへ入る。凪はなるべく邪魔にならないよう、端へ寄った。端の方ぎりぎりまで身体を縮こめる。嵐に触れないように、静かに息を潜めた。
けれどしばらくして、隣から低い声がする。
「そんな端で寝るな。落ちるだろ」
次の瞬間、嵐の腕が伸びてきて、凪の身体を引き寄せた。
「っ……」
凪の身体が強張る。嵐の腕が背中に回る。熱くて、近い。けれど、それ以上なにかしてくる気配はなかった。
「……嵐、さん」
「寝ろ」
それだけだった。
凪はしばらく目を開けたまま、暗い天井を見つめる。隣から、嵐の呼吸が聞こえる。規則的で、静かだった。
それからも、嵐は相変わらず食事を作り、仕事に行き、凪と一緒に眠った。
ともだちにシェアしよう!

