72 / 86
体温│十九歳
ある日のことだった。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
仕事から帰ってきた嵐は、いつもとは違い、片手に小さな白い箱を持っていた。
凪は箱と嵐の顔を見比べる。仕事先でもらった手土産だろうかと思ったが、嵐はその箱をまっすぐテーブルに置いた。
「凪、開けてみろ」
言われるまま、そっと箱を開けてみる。
「……っ」
中に並んでいたのは、小さなショートケーキだった。ふわふわの生クリームの上に、みずみずしいメロンが綺麗に乗っている。淡い緑色が、部屋の灯りを受けて艶やかに光っていた。
凪の指先が止まる。
どうして、メロンなんだろう。
「なにか、いいことあったんですか?」
気付けば、そう聞いていた。
嵐はネクタイを緩めながら、当たり前みたいな顔で言った。
「お前の誕生日だ。今日で十九だろ」
その瞬間、凪の呼吸が止まった。頭の奥が白くなる。
――アンタが誘ったんでしょ!
耳の奥で、甲高い声が響く。
透明なケースの中で潰れた、白いケーキ。甘い香水の匂い。
喉の奥が締まる感覚がする。
さらにもう一つ、低い声が頭の奥に張り付いた。にやけた口元と、覆い被さる影。
――お前、十八になったんだろ。
「……っ」
息の仕方を忘れる。視界がぐらつく。気付けば、箱の縁を強く掴んでいた。それを見ていた嵐が、ほんの少し眉を寄せる。
「……凪」
低い声で名前を呼ばれて、凪ははっとする。大丈夫です、と言おうとしたのに声が出ない。しばらく黙っていた嵐は、それ以上なにも聞かなかった。代わりに椅子へ腰掛け、静かに言った。
「無理なら、後でもいい」
責める声じゃなかった。それだけで、凪は少しだけ息ができた。
嵐は凪を見たまま、ぽつりと言う。
「せっかくだ。なにか、欲しいものはあるか」
そう聞かれて、反射みたいに首を横に振る。
「なにもいらないです。なにも……」
言いかけて、胸の奥がじわじわ熱くなる。怖い。欲しいなんて言ったら、またなにかを失う気がした。でも今、目の前にいるのはあの人じゃない。
「なに、も……」
本当に、そうだろうか。
凪は俯いたまま、震える声を絞り出した。
「あの、手、を……」
自分でも驚くほど、ひどく小さな声だった。
「……手を、握ってくれたら……」
部屋が静かになる。言ってから、しまった、と遅れて思った。困らせたかもしれない。
けれど次の瞬間、凪の冷えた手に、大きな熱が触れた。
「……っ」
嵐の手だった。指を一本ずつ包むみたいに、しっかりと握られる。少し硬くて、仕事帰りの体温がそのまま伝わってくる。
「……これで、いいか」
低い声が聞こえた。嫌がってるわけでも、不機嫌でもない。その瞬間、視界が滲んだ。
ぽたり、と膝の上に雫が落ちる。
慌てて拭こうとした手を、嵐がもう一度強く握り直した。
「……泣くなとは言わない」
その声は、不器用なくせに、どうしようもなく優しかった。
凪は俯いたまま、小さく頷く。
誕生日に誰かが隣にいてくれるなんて、凪はその日、生まれて初めて知った。
ともだちにシェアしよう!

