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体温│十九歳

 ある日のことだった。 「おかえりなさい」 「ああ、ただいま」  仕事から帰ってきた嵐は、いつもとは違い、片手に小さな白い箱を持っていた。  凪は箱と嵐の顔を見比べる。仕事先でもらった手土産だろうかと思ったが、嵐はその箱をまっすぐテーブルに置いた。 「凪、開けてみろ」  言われるまま、そっと箱を開けてみる。 「……っ」  中に並んでいたのは、小さなショートケーキだった。ふわふわの生クリームの上に、みずみずしいメロンが綺麗に乗っている。淡い緑色が、部屋の灯りを受けて艶やかに光っていた。  凪の指先が止まる。  どうして、メロンなんだろう。 「なにか、いいことあったんですか?」  気付けば、そう聞いていた。  嵐はネクタイを緩めながら、当たり前みたいな顔で言った。 「お前の誕生日だ。今日で十九だろ」  その瞬間、凪の呼吸が止まった。頭の奥が白くなる。  ――アンタが誘ったんでしょ!  耳の奥で、甲高い声が響く。  透明なケースの中で潰れた、白いケーキ。甘い香水の匂い。  喉の奥が締まる感覚がする。  さらにもう一つ、低い声が頭の奥に張り付いた。にやけた口元と、覆い被さる影。  ――お前、十八になったんだろ。 「……っ」  息の仕方を忘れる。視界がぐらつく。気付けば、箱の縁を強く掴んでいた。それを見ていた嵐が、ほんの少し眉を寄せる。 「……凪」  低い声で名前を呼ばれて、凪ははっとする。大丈夫です、と言おうとしたのに声が出ない。しばらく黙っていた嵐は、それ以上なにも聞かなかった。代わりに椅子へ腰掛け、静かに言った。 「無理なら、後でもいい」  責める声じゃなかった。それだけで、凪は少しだけ息ができた。  嵐は凪を見たまま、ぽつりと言う。 「せっかくだ。なにか、欲しいものはあるか」  そう聞かれて、反射みたいに首を横に振る。 「なにもいらないです。なにも……」  言いかけて、胸の奥がじわじわ熱くなる。怖い。欲しいなんて言ったら、またなにかを失う気がした。でも今、目の前にいるのはあの人じゃない。 「なに、も……」  本当に、そうだろうか。  凪は俯いたまま、震える声を絞り出した。 「あの、手、を……」  自分でも驚くほど、ひどく小さな声だった。 「……手を、握ってくれたら……」  部屋が静かになる。言ってから、しまった、と遅れて思った。困らせたかもしれない。  けれど次の瞬間、凪の冷えた手に、大きな熱が触れた。 「……っ」  嵐の手だった。指を一本ずつ包むみたいに、しっかりと握られる。少し硬くて、仕事帰りの体温がそのまま伝わってくる。 「……これで、いいか」  低い声が聞こえた。嫌がってるわけでも、不機嫌でもない。その瞬間、視界が滲んだ。  ぽたり、と膝の上に雫が落ちる。  慌てて拭こうとした手を、嵐がもう一度強く握り直した。 「……泣くなとは言わない」  その声は、不器用なくせに、どうしようもなく優しかった。  凪は俯いたまま、小さく頷く。  誕生日に誰かが隣にいてくれるなんて、凪はその日、生まれて初めて知った。

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