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命│埋まる余白

 夜。食後のテーブルに、嵐が紙とペンを置いた。 「そろそろ決める。陣痛が来た時の動きだ」  凪はぱちりと瞬きをする。カレンダーを見る。そういえば、もうあと少しで予定日だった。  嵐は紙に線を引きながら続ける。 「まず、我慢するな。一人で動くな。玄関で待て、俺が行く」  凪はこくりと頷く。 「俺に電話しろ。出なければ三回。それでも駄目なら総務にかけろ」 「でも、お仕事……」 「関係ない。仕事よりも優先する」  間髪入れずに返されて、凪は言葉を飲み込んだ。 「病院とタクシーにも連絡する。必要な荷物は玄関にまとめておく」  嵐が番号を書き出し、凪は慌ててスマホに登録していく。やることが多くて、少し息が詰まる。 「……夜だったら」 「起こせ。俺が寝ていてもだ」  迷いなく言い切られ、凪の肩から少し力が抜けた。 「他に、不安なことは」  少し迷ってから、凪は口を開いた。 「不安……」  腹に手を置く。 「いっぱい、あります」  正直にそう言うと、嵐は続きを促さなかった。ただ待っている。 「産むの、怖いです」  ぽつりと零す。 「痛いって、聞きますし……」  少しだけ笑おうとしたが、上手くいかなかった。 「それに、おれ、親って、よくわからなくて」  嵐が顔を上げる。  義父の顔が浮かぶ。もう輪郭も朧気だけれど、母のことも。 「泣いたらどうしたら、とか、叱るって、どうするのかもわからないし、どこまでが普通なのかも、わからなくて」  凪は手の甲をなぞる。右にも左にも、丸い跡がついている。昔、躾と言われて、押し当てられたのを思い出す。 「もし、おれが間違えたら」  声が小さくなる。 「おれが……母や、義父みたいになったら」  嵐が瞬きをする。 「この子を傷付けたら、どうしようって……最近、そればっかり考えてます」  頭の奥が鈍く痛い。嵐はやがて椅子の背にもたれ、口を開いた。 「ならない」  凪が顔を上げる。 「どうして、そう言えるんですか」 「お前はもう心配している」  嵐は答える。 「ああいう人間は、自分が間違っているかどうかなんて考えない」 「……」 「それに、一人で育てるつもりなのか、お前は」  凪が瞬きをする。 「違うだろう」  その言葉に、凪は少し眉を寄せる。  ふと、紙の擦れる音がした。  凪が顔を上げると、嵐が引き出しから別の書類を取り出し、静かにテーブルへ置いていた。 「……え」  役所の書類だった。見慣れないそれを、凪はぼんやり見つめる。けれど次の瞬間、父親欄という項目を見つけて、さらにそこに書かれた名前が目に入って、呼吸が止まった。  そこには、嵐の名前があった。真っ直ぐで迷いのない筆跡が、目の前のメモと重なる。 「これ……」  凪が顔を上げる。 「認知届だ」  低くて、でもしっかりした声だった。認知って、どういうことだろう。紙を裏返しながら凪は恐る恐る訊ねる。 「……なんの、書類ですか」 「この子の父親になる」  あまりにも当たり前みたいに言われて、凪は言葉を失いそうになる。 「でも……この子、嵐さんの子じゃ」 「知ってる」  嵐は即座に言った。それから真っ直ぐ凪を見る。 「知ってる上で、俺が決めた」  凪の指先が震える。嬉しいのに、怖い。もし気が変わったら。もし、ただ安心させるためだけだったら。  そんな考えが浮かんだ瞬間、嵐の手が凪の手首に触れた。  びくりと肩が揺れる。けれどその手は、引き寄せるでも押さえつけるでもなく、ただ包み込むように、凪の指先をそっと握った。 「何度も言わせるな」  低い声は少し不機嫌で、でも、突き放しはしなかった。 「お前だけに背負わせるつもりはない」  その一言で、凪の視界が、どうしようもなく滲んだ。認知届を握ったまま、凪はしばらく俯いていた。  紙が少しずつ湿っていく。涙が落ちていることに、自分でも遅れて気付いた。 「……なんで」  やっと出た声に、嵐は短く答える。 「必要だと思った」  それだけだった。凪は唇を噛む。胸の奥が熱くて、苦しくて、うまく息ができない。 「……おれ、この子が……ずっと、怖かった」  声が震える。嵐はなにも言わない。ただ、凪の言葉を待っていた。 「この子を見るたびに……おれのせいで、こうなったのかなとか……なんで産まれてくるんだろう、とか、思ってしまって」  そこで一度、言葉が詰まる。 「……でも、怖いままなのは、嫌、で」  嵐の目がわずかに揺れる。凪は嵐の服の裾を、そっと掴んだ。 「この子が、産まれてくる理由を……違うものに、したくて……本当に、嵐さんとの、子供だったらって、何度も……」  ようやく絞り出した言葉だった。 「……おれ、知らないんです」  嵐が眉を寄せる。 「なにをだ」 「優しくされるのとか……そういうの」  凪は俯いたまま続ける。 「だから、知りたいんです。怖くないって、どういうことなのか」  部屋が静かになる。嵐はしばらく黙っていた。それから、凪の涙を親指でそっと拭う。その指は驚くほど優しかった。  汚れ物でも扱うみたいに触られることには慣れていた。けれど、泣いているから触れられたことなんて、一度もなかった。 「……俺で、いいのか」  そう問われて、凪は頷いた。その時、嵐の目元がほんのわずかに緩んだ。これまで見たことのない表情だった。安堵にも、嬉しさにも見えた。だが凪にはその意味までは、わからなかった。  次の瞬間、嵐は凪を静かに、けれど力強く抱き寄せた。そして低い声で囁く。 「なら、一人で抱えるな。……お前が選ぶなら、俺は逃げない」  その言葉を聞いた瞬間、凪の肩から力が抜ける。 「平気です。嵐さんだから――」  凪はそう言いかけて、口を閉じた。なにが嵐さんだからなのか、自分でも上手く言葉にできない。怖くないから。信じられるから。それとも。 「……」  嵐はなにも聞かない。  凪は嵐の服を、今度は少しだけ強く握り返す。そのまま嵐が立ち上がる。凪もそれに続く。  それからゆっくりした足取りで、二人は寝室へと向かった。

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