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命|✦︎上書きとぬくもり
嵐がベッドまで誘導してくれる。一緒に寝るのは珍しくないのに、この日だけは意味が違っていた。
凪はシャツのボタンに手を掛ける。でも、身体が勝手に動いた。待たせないように。怒らせないように。けれど指先が震えて、うまく動かない。
その時、嵐がその手をそっと掴んだ。
「……違う」
凪は息を止めた。
「そんな顔でするな」
嵐は強張った指先を、親指でゆっくり撫でる。
「無理に合わせなくていい」
そう言って、嵐は凪の手をゆっくり下ろした。じゃあどうすればいいのか、戸惑う。けれどほんの少しだけ、自分から嵐の方へと近付いた。
嵐が凪のシャツのボタンを一つ一つ、ゆっくりと外していく。乱暴じゃない。好奇や興奮に支配されている様子もない。ただの着替えみたいだと思ったのもつかの間、凪は嵐の手が震えていることに気付いた。
「怖かったり、痛かったりしたら言え」
低い声だった。けれど、その声も少しだけ硬かった。
「……はい」
そう言って、嵐もまた自身のシャツに手を掛ける。一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたのちに、服を脱ぐ。普段かっちりしたスーツに包まれたその体は、筋肉質で逞しい。均整の取れた体は、圧があるのに怖くない。
ふと、自分の腹を見る。丸みを帯びたそこだけが、やけに目立って見えた。男の前で裸になるのは慣れてるはずなのに、無性に恥ずかしくなる。
「あの、おれ……お腹、大きいし、その……上手く、できないかも……」
「そういうことは言うな」
嵐にそうぴしゃりと返されて、凪は目を伏せた。どう動けばいいかわからないでいると、ふと指を絡められた。誕生日の時みたいに、指を優しく握り込んでくれる。壊れ物でも触れるみたいに、繊細な手つきだった。しばらくそうしたあとで、その手が移動する。髪を耳にかけたあとで、そのまま頬に触れる。嵐の大きい手が、凪の頬を包み込む。
「……嵐さん」
次の瞬間、唇が触れた。
驚くほど静かだった。急かされることも、品定めされることもない。ただ、確かめるような触れ方だった。
「ん……」
一度離れたと思ったのもつかの間、嵐は再び凪の頬に手を添える。
「あらし、さ」
呼びかけた声ごと塞がれる。今度は触れられるだけではなかった。
凪は思わず嵐の首に手を添え、角度を変えて何度も重ねられるそれを受けていた。
気付けば、強張っていた肩の力が少し抜けていた。
そうして、凪は足を開く。隠していたものを暴くみたいに、ゆっくりと。けれどその先になんと言えばいいか、わからなかった。
嵐はただ、凪を見ている。その視線に耐えきれなくなって、凪はつい目を逸らす。
やがて嵐が静かに近付く。
だが、その時だった。
嵐の動きが、ふいに止まった。嵐が息を詰める音がして、それに気付いた凪は恐る恐る顔を上げた。空気が変わったことに気付いて、凪はどうかしたのだろうかと妙に焦る。
「……嵐さん?」
返事がない。
嵐の視線は、凪の足の付け根あたりで止まっていた。なにか変だろうかと思った時、ふっと記憶が浮かぶ。暗い部屋と焦げた匂い。そこで何度も押し付けられた、熱。声を出したらまたやられると思って、息を止めたこと。手の甲についたのと、同じ痕。
あの時の跡が、まだ残っているんだ。
見つかった。
そう思った瞬間、凪はシーツを強く握り締める。
今までなら、傷を見られてもなんとも思わなかった。どうせ、そういうものだったから。なのに今は嫌だった。凪は目を伏せて、それから、笑おうとした。けれどうまく出来なかった。
バスルームや旅館の風呂場で、嵐が自分の体に残る傷を見てしまった時のことを思い出す。ぎょっとした顔で、それから、思い詰めたような顔をしていた。あの時と同じだ。
こんな気持ち悪い体で抱いて欲しいなんて、おこがましかったんだ。
わずかに顔を傾けると、つ、と熱いものが目尻から落ちそうになる。
凪は反射的に足を閉じようとした。
「あの……傷、見えない方法だったら……」
言いながら、自分でもなにを言っているのかわからなかった。背中を向ければいいと考えて、でもそこにも傷があることを思い出す。どうしたらいいのかわからない。嵐はまだ動かない。やめますともはっきり言えないまま、凪は思わず押し黙る。
不意に、嵐はなにかを堪えるように唇を噛んだ。次の瞬間、鈍い音が響く。嵐の拳が、ベッド脇の壁を叩いていた。
「……くそ」
一瞬、怒られたかと思った。でも、違った。
「誰が、こんなことを」
嵐の声は低く掠れていた。
凪にはそれが理解できなかった。傷を負ったのは自分だ。 苦しかったのも自分だ。なのに、どうしてこの人がそんな顔をするのだろう。
「……嵐さん」
呼ぶと、嵐がはっとしたように顔を上げる。その目には怒りと、それ以上の痛みが滲んでいた。
「悪かった」
小さくそう言って、嵐は拳をほどく。
「お前を責めているんじゃない」
凪はゆっくり瞬きをした。
「わかって、ます」
そう答える声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「……見えない方法なんて、言うな」
押し殺した、低い声だった。
「無理してないか」
凪は小さく頷く。それでも嵐は納得しなかった。指先が、わずかに震えている。
「俺が怖くないか」
凪は瞬きをした。思ってもいなかった問いだった。
傷を見られたのだから、嫌われたかどうかを聞かれると思っていた。 なのに嵐が気にしているのは、自分の方だった。
「……怖く、ないです」
声にすると、不思議なほど自然だった。
「嵐さんは、違うから」
そう言うと、嵐は受け止めたように頷いた。
もう一度、唇が重なる。深くて、柔らかい。その合間に、嵐の指が凪の体をゆっくり触る。大事なものでも触るみたいに、優しい指先が凪の体を順番になぞる。それがようやく下肢に辿り着く。凪は息を詰める。
やがて、嵐の指がゆっくりと中に入ってくる。
「……っ」
嵐は凪の様子を見ながら、少しずつ触ってくれる。いつの間にか用意されていた潤滑ゼリーも使って、ゆっくり入口を広げていく。こんなに丁寧に触れられた時にどう反応するのが正解なのかわからなくて、凪は戸惑う。けれど嵐は責めたり笑ったりもしなかった。
「あ……」
指が抜けていく。寂しさを感じる間もなく、今度は嵐のそれが柔らかくなった入口に宛てがわれる。心臓の音がうるさくて、煩わしささえ感じる。だけど今までにない感覚に、凪は無理やり唾を飲んで自分を落ち着けた。
そうして凪が頷くと、ようやく嵐が動いた。硬い先端で入口をこじ開け、躊躇うように何度か止まりながら、奥まで進む。少し、痛みが走る。ふと、嵐が凪の手を握った。その手から伝わる温度に、凪の体から徐々に力が抜けていく。
そうこうするうちに、凪のそこはすぐにいっぱいになった。あたたかな熱が、自分を満たしていることを感じている。
しばらくして、嵐が動き出す。今までに経験したことがないぐらい優しくて、ともすれば不器用にも見えるぐらいゆっくりで。
「あっ、あぁ……っ」
凪の息が乱れ始める。唇を塞がれる。それでも手は繋いだままだった。少しずつ、体の奥でなにかが積み上がり、声が上擦っていく。
もし、お腹の子が、こんな触れ合いの中で産まれた命だったら。
「嵐さん……っ」
凪は名前を呼ぶ。
「凪」
優しい声が名前を呼んだ。今まで呼ばれたことのない声だった。嵐は手繰り寄せるように、凪の手をぎゅっと握る。動きが、少しだけ速くなる。
やがて、頭の奥が白く弾けた。
しばらく、誰もなにも言わなかった。静かな部屋に、荒い呼吸だけが残っている。凪はぼんやりと天井を見上げたまま、うまく頭が働かなかった。身体が熱い。指先に、まだ感触が残っている。気付けばずっと繋がれていた手を、凪は無意識に握り返していた。
「……っ」
そのことに気付いて、慌てて力を緩める。けれど、嵐は離さなかった。それどころか、指を絡め直すみたいにもう一度握り込まれた。
胸の奥が妙に苦しい。嫌だったわけじゃない。怖かったわけでもない。むしろ、逆だった。
こんなの、知らなかった。
「……俺」
言葉が詰まる。唇だけがぱくぱくと動く。すると嵐の大きな手が、凪の髪をゆっくり撫でた。
「よく頑張った」
その一言で、凪の視界が滲んだ。泣くつもりなんてなかったのに、勝手に涙が溢れる。嵐はなにも言わない。ただ、大きくて無骨な嵐の親指が、濡れた目元のラインをなぞった。
「こわく、なかったです」
掠れた声でそう言うと、嵐はそのまま静かに凪を抱き寄せた。
「ああ」
それだけだった。でも、その声がやけにあたたかかった。
「……俺を選んでくれて、ありがとう」
ぽつりと零された言葉に、凪は瞬きをする。ぽつりと零された言葉に、凪は瞬きをする。
選んだ。そう言われても、凪にはぴんと来なかった。
今日、自分は嵐を選んだのだろうか。ただ、嵐だったから怖くなかっただけだ。
それ以外の理由なんて、思いつかなかった。
凪はそのまま目を閉じた。暗くなった視界の中で、もう、大丈夫だと思った。
もしできるなら、今日のことだけを取り出して、瓶に詰めてしまいたかった。
怖くなかったことや、優しくされたことを、忘れないように。
そうしたらこの子のことも、今日のことも、少しだけ怖くなくなる気がした。
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