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命│初めまして
昼過ぎだった。
洗濯物を畳み終えた凪は、小さく息を吐いてソファに座り込む。最近、少し動くだけで身体が重かった。腹も大きい。もういつ産まれてもおかしくないと医者にも言われていた。
嵐は仕事に行っていて、部屋はやけに静かだった。朝、「今日は定時で帰る」と言っていたのを思い出す。早く帰ってこないだろうかとぼんやり考えて、すぐに首を振る。
その時だった。
「……っ」
腹の奥が、ぎゅう、と掴まれたみたいに痛んだ。凪は思わず腹を押さえる。少しして痛みは引いた。張っただけだろうか。最近はこういうことも増えていた。
けれど違和感が残る。凪はゆっくり呼吸を整えながら、時計を見る。
数分後。もう一度、痛みが来た。今度はさっきより強い。
「ぁ、……っ」
思わず声が漏れる。凪はお腹に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
――我慢するな。
――来たと思ったら連絡しろ。
嵐の声が頭に蘇る。凪は震える手でスマホを掴む。指がうまく動かない。深呼吸して、ようやく通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。一回。二回。……出ない。
凪は乾いた唇を舐め、もう一度掛ける。
――三回だ。
言われた通りにしなきゃ。凪は唇を噛んで、もう一度発信した。
『……凪?』
繋がった瞬間、全身から力が抜けそうになる。
「あ、嵐さん……っ」
『どうした』
「お腹、痛くて……たぶん、これ……っ」
一気に言おうとして、また痛みが来る。息が詰まって、言葉にならない。
『凪』
低い声が、はっきり響く。
『落ち着け。何分間隔だ』
「わ、かんな……でも、さっきから……」
『いい。病院には俺が連絡する。タクシー呼べるか』
「……はい」
『玄関で待ってろ。すぐ帰る』
その声を聞いて、凪はようやく息を吐いた。
怖かった。一人だと思った瞬間、頭が真っ白になっていた。
でも、今は違う。スマホを握ったまま、凪はゆっくり腹を撫でる。
その時、また痛みが来た。それでも凪は、小さく息を吸った。
「っ、……大丈夫」
自分に言うみたいに、腹の子へ囁く。
そうして凪は、嵐が帰ってくる玄関の方を見つめながら、静かに痛みに耐えた。
痛みは、思っていたよりずっと長かった。凪はもう、まともに声も出せなかった。
何度目かわからない痛みの波に呑まれるたび、視界が白く霞む。息を吸うだけで精一杯で、汗に濡れた指先がバーをぎゅっと掴んだ。
「凪、息を吸え」
隣から聞こえる低い声に、どうにか意識を繋ぎ止める。右手をずっと握ってくれている嵐の手は熱く、いつもより力が強かった。
「……っ、あ……!」
苦しい。痛い。逃げたい。けれどもうすぐ終わるのだと、頭のどこかでわかっていた。
「頭見えました、もう少しです!」
助産師の声が飛ぶ。いろんな機械音や金属音がする。凪は震える息を吐きながら、必死に力を込めた。腹の奥が引き裂かれるみたいに熱くなって、その瞬間、ふっと身体が軽くなる。
終わった。
そう思った。
けれど次の瞬間、凪は違和感に気付く。
やけに静かだ。
本来なら聞こえるはずの声が、聞こえない。
「……」
助産師たちが素早く赤ん坊を囲む。白い布の向こうに、小さな身体が見えた。けれど動いているのかも、凪にはわからない。
「ぁ……」
うまく息が吸えない。
なんで。
その時、嵐の手がより一層、凪の手を強く握り返した。痛いぐらいだった。どういう状況か聞こうとして、でも上手く声に出ない。
「羊水を少し飲んでます、吸引しますね」
助産師は冷静な声で答える。けれど嵐は赤ん坊から目を離さなかった。張り詰めた横顔を見た瞬間、凪は初めて、この人も怖がるんだと思った。
「……大丈夫、ですか」
誰に向けたのかもわからないまま、凪は小さく呟く。返事はない。細い管が小さな口元へ伸びていくのを見ているうちに、どこか落ち着かなくなった。
もし、この子が――
そこまで考えた瞬間だった。
「――っ、ぁ……!」
小さな音が漏れる。次の瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込んだみたいな泣き声が、部屋いっぱいに響いた。それが聞こえた時、凪はようやく息ができた。助産師たちの空気がふっと緩み、その隣で、嵐もまた息を吐いた。今まで聞いたことがないぐらい重たくて、張り詰めていたものからようやく解放されたような呼吸だった。
ゆっくり赤ん坊を見る。くしゃくしゃの顔で、力いっぱい泣いていた。
対面した時、どんな顔をすればいいか、凪はずっと考えていた。泣くのか、戸惑うのか。けれど、気が付けば自分の口元はやわらかく緩んでいた。
「……生きてる」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くぐらい震えていた。
そのあと、そっと腕の中に乗せられる。
思ったより重かった。両腕で支えなければ不安になるほど小さいのに、ずっしりして、確かな重みがある。まだ目も開いていないのに、赤ん坊は顔をしかめるように泣きながら、細い腕を動かしている。その動きを見ているだけで、胸が高鳴りを覚えた。恐る恐る抱き寄せる。産まれる前からずっと腹の中にいたはずなのに、こうして目の前にいると別の存在みたいだった。
自分には育てられないと思っていた。名前も知らない誰かに託した方が、この子はまともな人生を歩けるだろうと。それが正しい選択だと、信じようとしていた。
けれど今、その考えを上手く思い出せない。
腕の中にいるのは、想像の中の赤ん坊ではなかった。
泣いて、動いて、生きている。
その当たり前の事実だけが、胸の中に重く沈んでいく。
ふいに、小さな手が凪の指先に触れた。反射みたいに指を差し出す。すると、その手は頼りない力で指を握った。
思わず息を呑む。
ほんのわずかな力だった。振り払おうと思えば簡単に離れてしまう程度のものなのに、身体が動かなかった。
もし手放したら。そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。けれどその続きを、凪は考えられなかった。
……あたたかい。
「……っ」
涙が零れる。
今までの人生で、自分が触れたものは、全部壊れていく気がしていた。
でも、この子はそうじゃないかもしれない。
凪は小さく息を吸って、それから泣き笑いみたいな顔で、隣を見た。
「……嵐さん」
嵐はしばらくなにも言わなかった。ただ、凪と赤ん坊を見つめていた。やがて汗で濡れた凪の髪をそっと撫でる。
「ああ。……おめでとう」
そう祝福してくれるその声は、どこまでも優しかった。
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