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命│名付けと届け出

 退院の日まで、あっという間だった。病院の外に出ると、あたたかい風が吹き抜けた。気が付けば、セミがシャワシャワと鳴き始める季節だった。  凪は小さな命を抱えたまま、立ち止まる。腕の中では、赤ん坊が静かに眠っている。小さな帽子が少しずれていて、凪は慌てて直した。 「凪」  呼ばれて顔を上げると、嵐が車のドアを開けながら、こちらを見ていた。 「足元、気を付けろ」 「はい」  そう返した瞬間、不意に手を差し出される。当たり前みたいなその仕草に、凪は少しだけ目を見開いた。  やがて、凪はゆっくりその手を取る。大きくて、温かい。  そのまま車に乗り込む。後部座席には、チャイルドシートが用意されていた。  家に着いて、玄関を開ける。見慣れたはずの部屋なのに、今日は少し違って見えた。一週間ぶりだからだろうか。理路整然としたモデルルームみたいだったリビングには、おむつやおしりふきがあって、寝室にはベビーベッドがある。クローゼットの中には、小さな服や靴下が並んでいる。ミルクも、哺乳瓶も、おもちゃも全部ある。  そこに、自分たちが帰ってきた。  ……なんだか、家族みたいだ。  凪が感慨深さに立ち止まっていると、隣の嵐が、ふ、と笑う。 「おかえり、凪」  靴を脱いで、当然みたいに言う。 「……ただいま、です」  由布院から戻ってきた時も、同じことを言った気がする。でも、今回は違う。 「ふゃ、あうー」  凪の腕の中で、産まれたばかりの小さな存在が、ふにゃふにゃと声を上げていた。  赤ん坊が眠ったあと、部屋はしんと静かだった。  ロープ編みの籠の中では、小さな胸が規則正しく上下している。凪はその様子を何度も確認してから、ようやくダイニングテーブルへ視線を移した。  凪の前には、出生届が置かれていた。ふうと息を吐いて、ようやくペンを持つ。けれどなかなか書けずにいた。名前を書く欄をじっと見つめたまま、手が動かない。 「……決まってるんじゃなかったのか」  向かいに座る嵐が言う。凪はうっと首を竦めた。 「決まっては、いるんですけど……」 「なら書け」  淡々とした声だった。でも急かしているわけじゃないことは、もうわかる。  凪はもう一度、名前欄を見る。それから、ゆっくりペン先を落とした。  風香。  一文字ずつ、確かめるみたいに書く。  書き終えてから、凪は少しだけその字を見つめていた。 「……ふうか?」  嵐が読み上げると、凪はこくりと頷く。 「なんとなく、です」  本当に、それだけだった。風みたいに、自由に。香りみたいに、やわらかく。そんなことをぼんやり思った気もする。だがうまく説明できなくて、凪は目を伏せる。 「花とか、華、とかもいいなって思ったんですけど、なんとなく、この字がしっくり来て……」 「こっちの字は、もう決まってたのか」  嵐が紙をトンと指さす。「風」の字が目に入って、凪は俯く。 「あ……その、おれの名前の字に、似てる気がして……」  そこまで言って、凪は嵐の名前にもその字が使われていることに初めて気付いた。たちまち顔が熱くなって、凪は紙を取り上げようとする。 「あ、あの、変えた方が、いいですか」 「いや。いい名前だ」  嵐は短く返した。その一言だけで、胸の奥がまた別の意味で熱くなった。凪は誤魔化すみたいにテーブルの縁を指でなぞり、唇を噛み締めた。  そのあと、嵐が書類を自分の方へ引き寄せる。なにをするのだろうと思っていると、ふいに嵐の手がペンを持つ。  凪ははっと短く息を吸った。 「……嵐さん?」  呼び止める声が小さくなる。嵐は顔を上げる。 「俺も育てる」  凪がなにか言う前に、嵐ははっきりした声でそう言った。そしてベッドの中にいる風香へと視線を向ける。 「家族だろ」  そのまま、黒川嵐、と父親欄に名前を書く。さらさらと迷いなく書かれていく文字を、凪はただ見ていた。  そこに、ちゃんと名前がある。 「……ほんとに、いいんですか」  凪は小さく呟く。嵐はペンを置いて、凪を見た。 「何回言わせる」  呆れたみたいに言う。でも、その顔は穏やかだった。  凪は黙って、それから視線を小さな籠ベッドへ向けた。  風香が、静かな寝息を立てて眠っていた。

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