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命│風の子

 風香が生まれてからというもの、時間の感覚がなくなった。  泣く。ミルク。おむつ。寝たと思ったら、また泣く。そして、おむつ。  その繰り返しだった。  朝、ぼんやりした頭のまま風香を抱き上げると、腕の中で「あー」と小さく声が聞こえる。 「凪」  後ろから声がして振り返ると、嵐が眠そうな顔のまま立っていた。前髪が少し乱れていて、目も半開きだった。 「ミルクだろ。俺が作る」 「で、でも……」 「いいから座れ」  凪は言われるままソファへ座る。その間にも、嵐は慣れた手つきで哺乳瓶を準備していた。  最初はぎこちなかったのに、最近はもう手順を覚えている。  風香を抱いたまま、凪は嵐を見る。スーツ姿しか知らなかった男が粉ミルクの分量を量っているのが、いまだに少し不思議だった。 「……すみません」  気付けばそう言っていた。嵐が振り返る。 「なにがだ」 「おれ、全然ちゃんとできなくて……」 「できてる」  即答だった。 「でも、もう朝です」  凪は時計を見ながら、このあと少し寝ようと考える。だがその時、凪はあることに気付いた。そして時計を二度見する。 「あ」  今日は平日だ。時計は、もう八時を回っている。 「ああっ」  凪は顔を上げる。 「嵐さん、遅刻……!」  慌てて立ち上がろうとした瞬間ふらついた。嵐が片手で凪の肩を支えてくれる。 「落ち着け」 「で、でも、お仕事……っ」  そう言うも、嵐は哺乳瓶を片手にいつもの口調で淡々と返した。 「育休だ」 「……え」 「育児休業。申請した」  まるで天気の話みたいな口調だった。凪は少し時間をかけて状況を読み込む。 「い、育休って……じゃあ、お仕事は」 「休んでる」  あまりにも普通に返されて、とうとう凪は言葉を失った。そんなことができるのかと思った。子どもが産まれたら、親が仕事を休む。凪にはどこか遠い話だった。けれど現実が目の前にある。  いつの間にか嵐は風香を抱いていて、哺乳瓶を持ったまま風香を見ている。風香は夢中になって、嵐の腕の中でミルクをんくんくと飲んでいた。 「会社の人、怒りませんか」 「別に」 「でも、社ちょ……嵐さんのお父さんには」 「父には報告した」  淡々とした返事だった。  凪は風香と嵐を交互に見る。  少し前まで、この人は朝から夜まで働いていた。休日ですら会社から電話が掛かってきたり、メールを返していた。  その人が今、パジャマ姿で哺乳瓶を持っている。寝癖も少しついている。  胸の奥がじんわりする。 「すみま……あ、あ……ありがとう、ございます……」  嵐は怪訝そうな顔をした一瞬、ふっと笑った。そして風香の口元を見る。  その様子が妙に真剣で、凪もまた釣られて笑った。  深夜、凪は風香を抱いたままソファに座っていた。  やっと眠ったと思ったのに、数十分も経たないうちにまた泣き始める。 「どうしたの」  小さな頭を撫でてやるも、返事は大きな泣き声だけだ。女将から教わった方法で抱き直してみたり、背中をさすったりしても同じだ。凪は少し迷って、ソファにいたペンギンのぬいぐるみを手に取った。風香の前で振ってみる。 「ほら、ペンギンさんだよ……」  時折こうしてやると、風香はぬいぐるみを抱いて寝ることがある。けれど逆効果だったのか、泣き声はますます激しくなった。 「あ……ごめん」  謝る必要なんてないのに、口から出た。風香は泣き続ける。  もしかしたら自分は、親失格なんじゃ。そんな無力感に、凪は唇を噛む。思わず涙で視界が滲みそうになる。  その時、寝室のドアが開く音がした。振り返ると、嵐が欠伸を噛み殺している。 「泣き止まないか」 「……上手くいかなくて」  嵐は隣へ座り、無言で風香を譲り受ける。すると不思議なことに、さっきまで泣いていた風香が少し静かになる。 「な、なんで」 「知らん」  あっさりした物言いだった。凪はつい瞬きする。 「でも……」 「赤ん坊なんて、そんなものだ。お前のせいじゃない」  そう言って、嵐は風香の頭を撫でる。 「お前が嫌だとか、親失格だとか、風香は考えてない。ただ泣きたいだけだ」  嵐にそう言われて、凪は風香を見る。唇がむちゃむちゃと動いている。ふぇ、と声が聞こえて一瞬警戒したのもつかの間、よく見ると風香が笑っているような気がした。  気付けば、季節が少し変わっていた。  風香が産まれてから、三ヶ月が経過した。  風香は前より長く起きているようになって、泣き声も大きくなった。小さな手で服を掴むことも増えた。  時々夏樹の実家からは野菜が届き、凪もまた、風香の写真を送った。  そしてその頃には、嵐の育休も終わろうとしていた。 「……明日から、お仕事ですか」  夜、風香を寝かせたあとで凪は小さく聞く。嵐はハンガーにかかっているスーツを確認しながら、「ああ」と答えた。  それだけなのに、目の前がぼんやりと暗くなる。  三ヶ月間、嵐はずっと家にいた。夜泣きのたびに一緒に起きて、ミルクを作って、抱き上げてくれた。その姿が当たり前になり始めていた。 「……大丈夫か」  気付けば、嵐がこちらを見ていた。凪は反射みたいに頷く。 「だ、大丈夫です」  でも声が少しだけ震えていた。嵐はしばらく凪を見つめ、それから静かに近付く。そうして、当たり前みたいに凪の頭を撫でた。 「何かあったら連絡しろ。すぐ帰る」  優しく低いその声に、凪は小さく息を呑んだ。その言葉だけで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。  けれど同時に、胸の奥が少しだけ痛む。  嵐はずっとここにいるわけじゃない。当たり前のことなのに、最近は忘れそうになっていた。風香のためにも、ちゃんと一人で立てるようにならなくちゃいけない。  それなのに。  ――すぐ帰る。  その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。

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