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命│粥と庇護
風香は寝返りを覚え、目を離した隙にころころ転がっていく。泣き声も前よりずっと大きい。体重も増えた。小さかった服はあっという間に着られなくなって、ベビーベッドの柵を掴んでは、きゃらきゃらと笑うようにもなった。
けれどまた、新たな課題も生まれていた。
風香は口を真一文字に閉じていた。
凪はスプーンを持ったまま固まる。
「……風香」
呼んでも開かない。さっきまで機嫌よく遊んでいたのに、粥を見た途端こうだった。口に持っていこうとすると、ぷいと顔を逸らされる。
「お願いだから食べて……」
せっかく作った粥は、もう冷めかけていた。凪がどうにか口元へ運ぼうとした瞬間、小さな手がぶんっと動いた。
べちゃ。
「あ」
白い粥が床に落ちる。思ったよりも強い力に、スプーンが床を転がる。敷かれたカーペットは、これまでの風香の食べこぼしやよだれで汚れていた。風香が寝ているあいだにやろうとして机に出していたノートや問題集も、巻き添えを食らうこともあった。
「ああ……」
凪は慌ててカーペットをティッシュで拭く。落ちるだろうかと心配するかたわら、汚した犯人は凪の罪悪感なんてまるで無視で、むしろ楽しそうに声を上げていた。
「ただいま。……なにがあった」
ネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた嵐は、その惨状を見て一瞬だけ眉を寄せる。
床に落ちた粥に、べたべたのカーペット。スプーンを拾う凪と、それを見てきゃっきゃと笑う風香。
「ご、ごはん、全然食べなくて……それで、その……投げてしまって……」
言いながら、自分でも情けなくなってくる。ちゃんと食べさせられない。部屋も汚してばかりだ。
けれど嵐は静かに風香の前まで歩いていくと、凪が拾ったスプーンをそっと手に取る。
「貸せ」
嵐はそのまま風香の前へ座った。
「ほら」
スプーンを差し出す。
次の瞬間、小さな手がぶんっと振られた。勢いよく弾かれた粥が、今度は嵐の頬にべちゃりと飛ぶ。
部屋が静まり返る。
「……っ」
凪の顔から血の気が引いた。
けれど嵐は数秒黙ったあと、自分の頬についた粥を指で拭う。そうして風香を見ると、小さく息を吐いた。
「元気がいいな」
「えっ」
凪は思わず間の抜けた声を漏らす。風香は嬉しそうに「あー!」と声を上げながら、今度はテーブルをばんばんと叩き始めた。嵐はそれを見て、真面目な顔で頷く。
「体力もある」
「そ、そういう問題じゃ」
「健康な証拠だ」
きっぱり言い切られて、凪は言葉を失った。
その間にも風香は楽しそうに笑いながら、粥まみれの手を振り回している。気付けば嵐のスーツの袖にも、白い跡がついていた。なのに嵐は気にした様子もなく、風香の手を軽く拭きながら口を開く。
「離乳食は遊ぶものだと思ってる時期らしい」
「……らしい?」
「育児書に書いてあった」
真顔だった。凪はぽかんと嵐を見る。出産の時に本屋で専門書を買っていたのは知っていたが、いつの間にそんなものまで読んでいたんだろう。
その時、風香がまた「あー!」と声を上げて、今度は嵐のネクタイをむんずと掴んだ。凪ははらはらしながら見守る。
「力も強い。将来は格闘家に……いや、ダメだ。怪我をする」
そう言う嵐をよそに、風香はますます嬉しそうに声を上げてはぐいぐいとネクタイを引っ張る。その様子が妙に可笑しくて、凪は小さく笑った。
嵐が顔を上げる。
「なんだ」
「いえ」
咄嗟に首を振る。けれど笑いは止まらなかった。
少し前まで、赤ん坊なんてどう接したらいいのかわからなかったはずだった。今は二人とも、当たり前みたいにそこにいる。
床は汚れていて、服もぐちゃぐちゃで、夕飯の支度もまだ始まってすらいない。それなのに、不思議と嫌な気はしなかった。
風香が夜通し泣いた日の翌朝だった。
目が覚めると、風香も嵐もいなかった。小さく欠伸を噛み殺しながらリビングに向かうと、風香が床の上で機嫌よくペンギンのぬいぐるみを弄んでいるのが見えた。
一方、嵐はソファに座ったまま目を閉じている。
「……嵐さん?」
返事がない。
凪は少しだけ首を傾げる。近付いて覗き込むと、嵐は眠っていた。ネクタイは半分緩んだままで、ワイシャツにも皺が寄っている。その膝には、風香の哺乳瓶が置かれていた。
たぶん、ミルクを飲ませながらそのまま寝落ちしたのだろう。
凪は息を呑む。
こんな姿、初めて見た。
いつもきっちりしていて、疲れた顔なんて見せなくて、なにがあってもちゃんとしている人だった。けれど今の嵐は、明らかに消耗していた。目の下には薄く隈ができていて、呼吸も深い。
「……っ」
胸に冷たいものが走る。嵐は仕事もして、夜も起きている。風香の世話も、自分のことも、全部抱え込んでいる。なのに嵐は、一度も「つらい」とか、「面倒くさい」なんて、一切言わなかった。……もしかしたら、自分には言えないのかもしれない。自分が、頼りないから。
その時、風香が「あー」と声を上げてむずがった。凪は慌てて抱き上げる。
「しー……」
小声であやして、できるだけ嵐から離れようとする。起こさないようにゆっくりと。けれどその動きで気配を感じたのか、嵐が目を開けた。
「……凪」
明らかに疲れた、力の入ってない声だった。
「あ……起こしてすみません」
「あうー」
「いや……」
嵐は額を押さえて、それから時計を見る。数秒遅れて状況を理解したみたいに、小さく息を吐いた。
「寝てました?」
「ああ」
短い返事だった。そのまま立ち上がろうとして、嵐の身体がわずかによろめく。凪は思わず息を呑んだ。
「嵐さん」
「大丈夫だ」
反射みたいな返事だった。けれど全然大丈夫には見えなかった。目の下には薄く隈があり、髪も少し乱れている。いつもなら出勤前には整っているはずだった。凪は風香を抱いたまま嵐を見る。
嵐は気付いていないのか、それとも気付かないふりをしているのか、もう哺乳瓶を片付け始めていた。
少し前まで、嵐はこんな顔をしなかった。
仕事で帰りが遅くても忙しくても、いつも平気そうだった。
風香が産まれてから夜中に起きるようになって、休みの日も出掛けなくなった。それでも嵐は、一度も嫌な顔をしなかった。
凪は小さく唇を噛む。胸の奥が落ち着かない。
それから、凪はスマホを手に取った。
『子育て 仕事』
検索窓に文字を打ち込む。すぐにたくさんの記事が並んだ。
『生後三ヶ月』『保育園』『在宅ワーク』
見慣れない言葉ばかりだった。嵐は仕事をしている。なのに、自分は家にいるだけだ。風香を見ていると言っても、それだけでいいのだろうか。
嵐がいなくても、生きていけるようにならなければならない。
いつまでも守られる側のままではいたくなくて、凪はスマホを握り締めた。
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