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命│煩わしい熱
朝、嵐を送り出したあとだった。
「いってらっしゃい……」
玄関のドアが閉まる。その音を聞きながら、凪は小さく息を吐いた。
風香は朝のミルクを飲み終えていて、リビングで機嫌よく声を上げている。凪はそれを見ながら食器を片付けようとして、ふと動きを止めた。
「……あれ」
身体が、重い。
熱でもあるのだろうかと思って額に触れる。けれど熱いのは皮膚だけではなかった。身体の奥がじわじわと熱を持っている。
息苦しさを覚えて、凪はゆっくりソファに腰を下ろした。胸の鼓動が妙に早い。足のあいだがむずむずして、無意識に膝を擦り合わせる。
「……っ」
不意に、甘い匂いがした。
自分からだと気付いた瞬間、凪は息を止める。まさか、と思った。でも身体は正直だった。頭がぼんやりする。誰かに触れてほしいみたいに、身体の奥が疼く。
そんな感覚、久しくなかった。妊娠してからずっと来ていなかったから、油断していた。
「うそ……」
小さく声が漏れる。
その時、風香が「あー!」と声を上げた。凪ははっとして顔を向ける。小さな身体がこちらへ手を伸ばしていた。
凪は慌てて抱き上げる。けれど触れた瞬間、お腹の奥がまた熱くなった。呼吸が乱れる。フェロモンが漏れている気がする。どうしよう、このままじゃ。
凪は風香を抱いたまま、震える手でスマホを探した。呼吸がうまくできない。胸の奥が熱くて、指先まで落ち着かない。けれど画面に表示された名前を見て、凪の指が止まる。通話ボタンはすぐそこにあるのに、押せなかった。
せっかく働いているのに、自分のことで呼び戻すなんて。
そんな考えが頭をよぎる。風香が小さく身じろぎする。凪は慌てて背中を撫でた。
「ごめん……」
なにに謝っているのか、自分でもわからないままスマホを置く。
少し休めば、治まるかもしれない。そう思いながら立ち上がるが、足元がふらついた。熱い。頭の芯がぼうっと霞んでいる。
とりあえず窓を閉め、リビングのカーテンを引く。鍵を確認して風香をベビーベッドへ寝かせる。
大丈夫。落ち着け。
何度も自分に言い聞かせる。
今までは部屋で息を潜めて耐えていた。けれど見つかれば終わりだった。無理やり部屋から引きずり出されて、逃げるなと怒鳴られる。泣いても、嫌だと言っても意味はない。
苦しそうな姿を見て笑われたこともあった。助けを求めても誰も来なかった。
あの頃の凪にできることは、早く終わることを祈るだけだった。
「……っ」
凪は強く目を閉じる。違う。ここはもうあの家じゃない。嵐の家だ。けれど身体は言うことを聞かなかった。呼吸が浅くなって、下腹部がどんどん熱くなる。
このまま嵐が帰ってきたら――
アルファはオメガのフェロモンに影響を受けると聞いたことがある。もし嵐が理性を失ったり、苦しませでもしたら。もし迷惑を掛けたら。
そこまで考えて、凪は首を振る。嵐はそんな人じゃない。不意に浮かんだ考えに、自分で驚いた。
怖いはずなのに、怖くない。少なくとも、嵐に対しては。なぜかと考え始めた思考も、呆気なく熱で溶けて行く。
「は……っ」
震える指で、もう一度スマホを手に取る。
画面には変わらず嵐の名前が表示されていた。
数秒躊躇う。それでも今度は閉じなかった。
小さく息を吸い込み、通話ボタンを押した。
「ん……っ」
数回の呼び出し音のあと、すぐに繋がる。
『凪?』
低い声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
「あ、嵐さん……」
『どうした』
短い問いだった。けれど普段と声が違うせいか、もう異変に気付いていみたいだった。凪は息を整えようとする。けれど上手くいかない。
「おれ……身体、変で……」
喉が熱い。自分の声が少し甘く滲んでいる気がして、凪は慌てて口元を押さえた。
『……発情期か』
「たぶん……」
電話の向こう側が、静まり返る。
『風香は』
「います……寝てません」
『わかった。とにかく水を飲め。俺が帰る』
「でも、お仕事……」
『いい。すぐ帰るから、待ってろ』
低く遮られる。その声に、凪はようやく小さく息を吐いた。通話が切れて、それきりになる。
静かになった部屋で、風香の大きな目が不思議そうに凪を見上げていた。凪はぎこちなく笑って、その小さな背を撫でる。
「……ごめん、ね」
なにに対して謝っているのか、自分でもわからなかった。
それからどれぐらい経ったのかも曖昧だった。身体はどんどん熱くなる。ソファに座っていても落ち着かない。どうにか気を紛らわせたかった凪は、部屋の掃除を始めた。そんなはずはないのに、居場所を壊される気がした。掃除をすると気が紛れた。
風香をベビーベッドへ寝かせる。離れた瞬間、小さな泣き声が上がった。
抱き上げなければと思うのに、足が動かない。気付けばトイレへ向かっていた。ドアを閉め、鍵を掛ける。かちり、と聞こえた小さなその音に、少しだけほっとした。
便座の蓋を閉じ、その上へ座り込んで膝を抱える。
狭い空間だった。けれど、ここでならやり過ごせる気がした。今は外では風香が泣いている。わかっている。早く出て、抱っこしなければ。ミルクかもしれない。なのに、立ち上がれない。
……気持ち悪い。そう思った。誰かに対してではない。自分自身にだ。昔からそうだった。怖かった。嫌だったし、逃げたかった。それなのに身体だけが置いていかれる。自分の身体なのに、自分のものじゃないみたいだった。だから発情期は嫌いだ。嫌だと思った感情でさえ、否定しきれなくなる。服が肌に擦れる感覚すら、敏感になった凪の感覚を刺激する。
そのまま額を膝へ押し付ける。時間の感覚が曖昧になる。どれくらいそうしていたのかもわからない。
不意に、玄関のドアが開く音がした。足音と、風香の泣き声が聞こえる。凪ははっと顔を上げた。
「風香!」
嵐の声だった。ほどなくして泣き声が少し遠ざかる。抱き上げたのだろう。それだけで少しだけ安堵した。
けれど次の瞬間、名前を呼ばれる。
「凪?」
身体が強張って、返事ができない。触りたいのに触れないまま、湿度だけが上がった体を抱えて息を吐く。
「凪」
再度声が聞こえる。近い。家の中を探している。凪は唇を噛んだ。
やがて足音が近付いてきて、トイレの前で止まった。
数秒後、こんこん、とドアが叩かれる。
「凪、いるんだろ」
怒っている気配はない。それが余計に苦しかった。返事ができない。外では風香が小さく声を上げている。
「風香は無事だ。だから安心しろ」
凪は目を閉じる。ピンと張り詰めた糸が緩むように、凪の胸の中のものがほんの少しだけ解けた。
目の奥が熱い。
掠れた声が漏れる。ドア一枚隔てた向こうで、嵐が小さく息を吐いた気がした。
「……とりあえず、鍵を開けろ」
その声は、驚くほど優しかった。
しばらくして、凪は鍵を開けた。ドアを開けた瞬間、ぐらりと体を傾ける。
「っ」
倒れそうになった体を、嵐が咄嗟に支えた。けれどその手はすぐに離れる。まるで必要以上に触れないようにしているみたいだった。
凪はぼんやりした頭で顔を上げる。
「嵐、さん」
名前を呼ぶ声が震えた。熱い。苦しい。落ち着かない。けれど、嵐が来た。それだけで少しだけ呼吸が楽になる。……今まで、誰かにいて欲しいと思ったことなんてなかったのに。
けれど嵐の表情は硬かった。額には薄く汗が浮いている。
「嵐さん……?」
「歩けるか」
短い声だった。いつもより少し低い。凪は頷こうとして失敗する。嵐は小さく息を吐いた。
「無理するな」
そう言って肩を貸してくれる。けれどその腕には妙に力が入っていた。
リビングへ戻ると、風香はすでに落ち着いていた。嵐は凪をソファへ座らせ、そのまま少し距離を取った。凪はそれが気になった。
「……嵐さん」
呼ぶと、嵐は一度目を閉じる。なにかを堪えるみたいに唇を噛んで、凪を見ないようにしている。そのまま、嵐はテーブルに薬と水を置いた。
「飲め」
「でも」
「先に。……はやく」
有無を言わせない声だった。凪は言われるまま薬を受け取る。手が震えて上手く持てない。すると嵐がコップだけ支えた。相変わらず視線は合わせない。
凪は不思議に思った。
「……大丈夫ですか」
その問いに、嵐は数秒黙る。やがてその顔が、ふっと崩れた。
「大丈夫じゃないな」
珍しい返事だった。凪は目を瞬く。
「でも、それとこれとは別だ。……気にするな」
嵐は静かに言って、風香の方を向く。やわらかな低音が、熱を帯びた頭にゆっくり染み込んでいく。凪はよくわからないまま頷いた。
薬を飲むと、少しずつ身体の奥の波が引いていった。呼吸が静かになって、重くなった瞼がゆっくり閉じていく。
「気を回せてやれなくて、すまない」
優しい声がした。
凪はなにも返せないまま、そのまま眠りに落ちた。
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