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命│余熱
目を覚ますと、部屋は静かだった。熱はもうだいぶ引いている。ぼんやりした頭のまま視線を動かすと、少し離れたソファに嵐が座っていた。風香はベビーマットの上でガラガラを振って遊んでいる。
嵐はいつも通りの顔をしていた。そこで、凪はようやく眠りに就くまでのことを思い出した。
「あ……」
発情期に当てられて、つらかったはずだ。仕事だって早退させてしまった。なのに、この人は責めない。
凪は毛布を握り締める。
――このままじゃ、いけない。
発情期も制御できないで、迷惑ばかりかけている。風香のことだってそうだ。嵐がいるからなんとかなっているだけで、自分一人だったらどうなっていただろう。
「あの、おれ……」
声を掛けると、嵐がこちらを見る。
「働きたいです」
凪は枕元に置いていたスマホを手に取り、ブックマークしていた画面を出して嵐に見せた。
「ここに応募したくて。……だから、履歴書の書き方、教えてほしいです」
嵐はスマホを受け取り、黙って内容に目を通す。少しだけ胸が高鳴っている。
自分で探して、見つけた。今までみたいに、誰かに言われたことをするんじゃない。自分で決めたことだった。これなら嵐も――
「駄目だ」
静かな声だった。凪の身体が固まり、胸の奥が冷えていく。
駄目。
その一言だけで、昔の記憶が蘇った。
『学校に行きたい? お前は馬鹿なんだから無理だ。金の無駄だ』
喉の奥が苦しくなる。と同時に、目の前が暗くなる。
やっぱり、おれには無理だと思ってるんだ。
そう思った瞬間だった。
「体はまだ回復してない」
凪は顔を上げる。
「え……」
「それに、風香は誰が見る」
そう言われて、視線が風香へと向く。風香がベビーマットの上で「う!」と声を上げて、ころりと寝返りを打った。
凪は瞬きをした。
「……あ」
言葉が出ない。そこまで考えていなかった。働くことばかり考えていた。
「保育園は」
「……」
「預け先は」
答えられない。嵐は責めるでも呆れるでもなく、ただ現実を確認するように問いかけているだけだった。
「調べてからにしろ」
そう言われて、凪は小さく頷いた。
「……はい」
凪は服の裾をぎゅっと握り締める。胸が痛む。けれどそれは否定された痛みではない。自分の考えが足りなかったことへの痛みだった。
その日の午後、凪はスマホを片手にひたすら調べ続けていた。
「たかい……」
思わず声が漏れる。保育園、認可外、一時保育、ベビーシッター。どれも知らない言葉ばかりだった。
料金表を見た凪は、思わず目を擦る。
働いても、預けるお金で消えてしまうかもしれない。認可保育園もすぐに入れるわけではないようだった。空き待ちやら申し込みやら選考やら、踏むべき手順が想像していたよりずっと多い。
スマホを握ったまま、凪はゆっくり項垂れた。
「全然……足りてなかった」
働けばなんとかなると思っていた。それだけだった。風香を育てながら生きていくということが、こんなに大変だなんて知らなかった。由布院で医者に言われたことや、夏樹や女将が心配していたのが今になってやっとわかった。
その日の夜。食卓で資料を眺めながら、凪は小さく息を吐いた。
「無理そうです」
正直にそう言うと、嵐はコーヒーを置いた。
「全部はな」
凪は顔を上げる。
「だが、土日なら俺が風香を見る」
「……え」
「週一、二程度なら現実的だ」
凪は目を見開いた。
「働くなと言ってるわけじゃない。できることから始めればいい」
嵐は淡々と告げる。その声は厳しくも優しくもなかった。ただ当然のことを言っているだけだった。けれどその言葉はあたたかかった。
否定されたわけじゃない。諦めろと言われたわけでもなかった。
ただ、一緒に方法を考えてくれていた。
「……はい」
凪は頷く。まだ一人では立てない。けれど、立ちたいと思った。
いつか、嵐に支えられるだけじゃなくなるために。
その第一歩なら、きっと今からでも始められる気がした。
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