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夜明け前│労働と対価
返事は速かった。
『今回は――』
画面を見たまま、凪は固まった。あっさりした断りの文章だった。丁寧に書かれているのに、それが余計に重かった。
それは一回だけではなかった。何件か続いた頃、嵐が隣からスマホ画面を覗き込む。
「……高卒認定を取ってからでも、遅くない」
静かな声がそう言う。確かに、現実的な提案でもある。凪は風香が産まれてからというもの、ほとんど触れられていない勉強セットへと視線をやる。けれど凪は、すぐに首を横に振った。
「取らなくても働けるところ、探します。っ、今すぐ働きたいんです」
言い切る声は、珍しく少し強かった。部屋が静かになる。
嵐はしばらくなにも言わなかった。風香の寝息だけが聞こえる。
「そんなに急ぐ理由はなんだ」
そう尋ねられて、凪は少し戸惑う。
「生活費なら心配するなと言ったはずだ」
「そうじゃないです」
「じゃあなんだ」
嵐の声が少しだけ硬くなる。凪は言葉を探した。うまく説明できない。ただ、このままじゃ駄目だと思っただけだ。
嵐に頼ってばかりで、守られてばかりなのは、嫌だ。
「俺……ちゃんと、一人でも生きられるようになりたくて」
求人画面を握る手に力が入る。
その瞬間、嵐の表情が固まった。空気がピンと張り詰めた予感がして、凪は息を止める。なにか変なことを言っただろうか。
嵐はしばらく黙り込んでいた。そして小さく息を吐く。
「由布院でなにを言ったか、覚えているか」
凪は瞬きをする。なぜ急にその話になるのかわからなかった。
「……そばにいていい、って」
「違う、その先だ」
即座に否定される。凪は肩を震わせながら記憶を辿る。そして思い出した。
――そばにいろ。
「……覚えてます」
あの時はてっきり、勝手に出て行った自分を許してくれたのだと思った。迷惑をかけたぶん、これ以上面倒を増やさないようにと、念を押されたのだと。
嵐はなにも言わない。けれど眉間には深い皺が寄っていた。
怒っている。それだけはわかった。でも理由がわからない。
働きたいと言っただけなのに。
「お前は時々、俺がなんのためにここまでしていると思っているんだ」
凪は考える。
なんのため。そんなの、決まっている。風香のためだ。だって、この人は風香の父親だ。
嵐は責任感が強くて、困っている人を放っておけない。
だから今、なぜ嵐がこんな顔をしているのか、まるで理由がわからない。
「……すみません」
反射的に謝る。すると嵐は目を閉じた。それから首を振る。
「いや」
短く吐き出す。少しの呆れが混じっていた。
「……もういい」
そう言って視線を逸らした。
凪はますますわからなくなった。
仕事が決まったのは、その少しあとだった。
駅前の小さなレストランで、仕事内容は皿洗いと簡単な清掃だけ。初出勤の日、凪は予定より三十分も早く店の前に着いていた。
早すぎたかもしれない。そう思いながらシャッターの閉まった店の前をうろうろしていると、中年の男性がシャッターの前にやって来た。先日面接してくれた店主だった。
「お、おはようございます」
慌てて頭を下げると、店主は少し驚いたように目を丸くした。
「凪くんだね。今日からか、早いねぇ」
怒られるかと思った。けれど店主は笑って、「まだ準備中だから、中で待ってていいよ」と言った。拍子抜けしながら店の中へ入る。
「よろしくね」
そう言われて、エプロンを渡される。ただそれだけなのに、胸が熱くなる。
「凪くん、準備できた?」
呼ばれて、凪は慌てて「は、はい!」と返事をした。
その日、皿を一枚落としそうになった。洗剤を入れすぎて注意もされた。それでも店主は怒鳴らなかった。
「最初はみんなそんなもん」
そう言って笑うだけだった。昼の忙しい時間が終わる頃には、腕がだるくなっていた。シンクの前に立ち続けたせいで、腰も重い。それでも嫌じゃなかった。
最後の皿を洗い終えた時、店主が声を掛ける。
「助かったよ。ありがとう」
凪は一瞬、返事ができなかった。
ありがとう。
その言葉が、自分に向けられた気がしなかった。
「……いえ」
ようやくそう答えると、店主が少し離れたところで笑った。
家に帰ると、風香が先に気付いて声を上げた。
「だー!」
凪は思わず笑う。
「ただいま」
その言葉が自然に出た。リビングの奥から嵐が顔を出す。
「おかえり。どうだった」
凪は少しだけ考えた。疲れた。緊張したし、失敗もした。それでも、どこか達成感があった。
「……明日も、行けそうです」
そう言うと、嵐が風香を抱き直す。
「そうか」
そう頷く嵐もどこか満足そうだった。
凪は、その返事が少し嬉しかった。
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