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夜明け前│大人になること

 バイトにも慣れてきて、一ヶ月ほど経ったある日。  帰り道、凪は駅前の輸入食品店の前で立ち止まっていた。  ガラス越しに並ぶ色とりどりのパッケージを、じっと見つめる。コーヒーの匂いがする。前に一度、嵐がここで豆を買っていたのを思い出した。  給料が入ったら、買ってみたかった。ちゃんと、自分のお金で。  凪は先ほど引き出した現金が入っている財布を、店に入る前に何度も見返しては確認していた。……大丈夫。足りるはず。  けれど店に入ってからもしばらくうろうろしてしまう。種類が多すぎて、どれがいいのかわからない。そもそも豆の種類が多すぎる。夏樹にチャットで聞いたら「本人に聞け」と返された。  値札と棚を見比べているうちに、店員が「なにかお探しですか?」と声を掛けてきて、凪は思わず「ひゃ」と声を上げた。 「あ、えっと……その」  しどろもどろになりながら、どうにか「苦くないのを……」と伝える。店員は慣れた様子でいくつか教えてくれて、凪はその中から小さなコーヒー豆の袋を選んだ。  それから帰り際、子ども用品売り場で風香用の小さなヘアゴムも買う。まだ髪は短い。でも、いつか使えるかもしれないと思った。  ――髪を結ぶ練習をしないとな。  そう、嵐が放った言葉が頭に蘇る。想像の中で、嵐が風香の髪を結ぶ。その手つきは少し不器用で、でも、優しかった。  帰宅してリビングに入ると、風香がすぐに「あー!」と声を上げた。嵐の腕の中から身を乗り出したかと思うと、活きのいいマグロみたいに逃げ出しては、凪の足元へと高速で這い寄ってくる。そして凪の持つ袋をじっと見上げる。 「あうー」 「……ただいま」 「おかえり」  嵐は凪の足元から静かに風香を回収して、それから小さく目を細めた。 「遅かったな。……買い物に行ってきたのか」  凪は少しだけ照れながら袋を差し出す。 「コーヒー、です。お給料、入ったので……」  嵐は風香を床に下ろし、袋を受け取ってラベルを確認する。 「あ……」 「ちゃんと豆だな」  そう言って、嵐は当たり前みたいに袋を持ち上げる。それを見た凪の心臓が、うさぎのように跳ねた。  昔、封筒を差し出したことがあった。中には体を売って手に入れた金が入っていた。その時の嵐は、今まで見たことがないぐらい嫌そうな顔をした。封筒を受け取るどころか、突き返された。  自分なりに、役に立とうとしたつもりだった。けれど、違った。  今なら少しだけわかる。あれは嵐が欲しいものではなかった。  だからだろうか。今、当たり前みたいにコーヒー豆を受け取ってくれたことが、妙に嬉しかった。 「……どうした」  嵐が不思議そうに振り返る。凪は慌てて首を振った。 「なんでもないです」  そう言いながらも、口元だけは少し緩んでいた。 「あの」  凪は嵐を呼び止める。嵐の見ている前で、さらに鞄をごそごそ漁る。やがて取り出したのは通帳だった。働く時に、嵐に手伝ってもらいながら作った通帳。つい差し出そうとした瞬間、ふと手が止まる。  嵐の手の中には、さっき渡したコーヒー豆の袋がある。当たり前みたいに受け取ってくれた、それ。  凪はしばらく通帳を見つめた。そしてそれを胸元へ引き寄せ、小さく笑う。 「……これは、渡さなくて、いいやつです」  それから嵐が静かに頷く。 「そうだ」  凪は通帳を開く。中には、自分で働いて得た金額が並んでいる。  昔なら渡していたと思う。役に立てると思った。迷惑を掛けたくなかった。自分の分を払わなければいけないと思っていた。  でも今は少し違う。この金は、嵐に渡すためのものじゃなくていい。  凪は通帳を閉じる。なんだか少しだけ、大人になった気がした。  ……今度、自分のためにもなにか買おう。  そう考えるだけで、自然と頬が緩んだ。  それから嵐はキッチンに向かい、コーヒー豆の袋を開けた。ふんわりした豊かな香が、凪の鼻をくすぐる。味は苦手だが、好きな匂いだ。……嵐の匂いだ。 「せっかくだ。お前も飲むか?」 「はい」  豆を挽く音が、静かな部屋に響く。凪は風香を抱き上げ、その動きをじっと見ていた。やがて湯気と一緒に、より香ばしい匂いが広がっていく。  テーブルに置かれたのは、二つのマグカップだった。  一つはブラックコーヒーで、もう一つはマグカップにたっぷりミルクと砂糖が入った、あたたかい薄茶色の飲み物だった。嵐は当然のように、薄茶色の方を凪の前に置いてくれる。それを見て、凪は首を傾げた。 「……これ」 「カフェラテだ」  嵐は真顔で言う。どう見てもほとんどコーヒー牛乳だった。  風香をベビーベッドに入れて、凪は恐る恐る口をつける。コーヒーの苦味を、ミルクのまろやかが中和してくれている。あたたかくて、いつもと違う味わいに、凪は目を瞬かせた。 「……おいしい、です」  ぽつりと呟くと、嵐は「そうか」と頷いた。  その横で、風香が柵の中から身を乗り出して、マグカップを見つめていた。小さな手を伸ばして、「あー」と不満そうな声を出す。嵐はそんな風香を片手で支えながら、淡々と言った。 「お前にはまだ早い。これは大人の飲み物だ」 「ぅー……」  不服そうな顔をして、風香が頬を膨らませる。凪はそれを見ながら、もう一度マグカップに口を付けた。  ……大人。  その言葉が、嬉しくもあり、少しだけ引っ掛かる気もする。  今まで、大人になった記憶なんてなかった。誕生日が来るたび、なにかを失っていくだけだったから。  けれど今、自分の通帳があって、自分で稼いだ金で買い物をして、家に帰ってきている。  凪は両手でマグカップを包み込む。あたたかかくて甘い現実が、ここにある。  そうして、凪は笑った。

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