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夜明け前│過去の足音

 シンクの中で、皿同士が触れ合うおしゃべりみたいな音がする。  夜のピークを越えた店内は少しだけ静かになっていて、凪は泡だらけの手で黙々と皿を洗っていた。水気を切っては拭き、重ねる。その単純な作業を、凪は夢中で繰り返した。白くなった皿が少しずつ積み重なっていくのを見ると、役に立てている実感も積み上がっていく気がした。 「白瀬くん」  不意に声を掛けられて、凪は思わず手を止める。振り返ると、店長が伝票を片手に立っていた。 「このあと、もう少し残れない?」  凪は壁の時計を見る。シフトが終わる時間まではあと少し。凪は時計を見たあとで、それから店長へと視線を戻した。 「……すみません、小さい子がいるので」  そう言った瞬間、近くで盛り付けをしていた調理場のおばちゃんが「え?」と顔を上げた。店長も驚いたように目を瞬かせる。 「白瀬くん、子どもいたの?」  凪は一瞬だけ迷って、それから小さく頷いた。 「……娘です。生後八ヶ月で」  そう言うと、二人は顔を見合わせて静かになる。しまった、と思った。やっぱり変だっただろうか。  けれどおばちゃんはすぐに「そっかぁ」と頷いた。 「じゃあしょうがないか。ちっちゃいうちは手掛かるもんねぇ」  やんわりした声と当たり前みたいな口調で、おばちゃんはそう言う。凪は皿の縁をなぞる手を止める。  すると店長が、ふと思い出したみたいに口を開いた。 「じゃあ、白瀬くん、今度、ホールもちょっと覚えてみない?」 「ホール、ですか」 「人足りない時だけでも助かるしさ。白瀬くん、真面目だから向いてると思うんだよね」  最初に雇われた時、「裏方作業が得意です」と履歴書に書いた。あれは嵐に言われた通りに書いた物だった。いきなり接客より、まずは人目の少ない仕事から始めた方がいいと。確かに夏樹の旅館でもほとんど掃除や洗濯や皿洗いばかりで、表に出たことはない。  正直、怖かった。知らない人と話すのは、まだ緊張する。  けれど同時に考える。もしかしたら、自分にもできるだろうか。  嵐に拾われてから、できないと思っていたことが少しずつ増えていった。勉強したり、働いたり、風香を育てたり。ずっと前に無理だと思っていたのに、どんどんできるようになってきている。それが嬉しくて、楽しい。それに時間の都合もつけてもらっているし、これぐらいなら。  凪は小さく頷いた。 「わかりました、やってみます」  次の土曜日、凪はぎこちない動きで水を運んでいた。 「お待たせしました……」  声が硬い。けれど客は特に気にした様子もなく礼を言う。思っていたより、ちゃんとできている気がした。  皿洗いだけじゃない仕事を任されているのが、ちょっとだけ嬉しかった。次はなにを覚えられるだろうか。そんなことを考えながら、凪はホールから裏に戻ろうとした。  その時だった。  レジの方から、よく知る男の声が聞こえた。  聞いたことのある声だった。凪は反射的に顔を上げる。裏からこっそりレジの方を覗くと、スーツ姿の男が立っていた。横顔しか見えない。けれどその肩の線や、声の響きに、心臓がどくりと鳴る。  東京に帰ってきて、品川駅で感じた時よりも確かな予感。  ……あの人だ。  そう思った瞬間、血の気が引いて、目の前が真っ暗になった。  違うかもしれない。ただ似ているだけかもしれない。  でも、もし、そうだとしたら。 「……っ」  息ができなくなる。酸素が消えたみたいに、肺に空気が入っていかない。 「白瀬くん?」  誰かが呼ぶ声がした。けれど返事ができなかった。視界がぐらぐら揺れる。手の感覚が遠い。落としかけたトレーをどうにか抱えたまま、凪はその場を離れた。狭い通路の壁に手をついて、荒い呼吸を繰り返す。  胃の奥が気持ち悪い。心臓が、嫌な速さで鳴っていた。 「……は、っ……」  頭が痛い。同時に、視界が徐々に暗くなる。  嵐の名前を思い浮かべた一瞬、意識の糸はふっと切れた。  気がつけば、凪は事務所の休憩スペースでパイプ椅子に座らされていた。どれぐらいそうしていたのかわからず、凪は慌てて時計を見る。気付いたら退勤時間を過ぎていた。事務室には誰もいない。早く謝りに行かなければ。  そう思って立ち上がった時、ふと事務所の扉が開いた。 「凪」  低い声に一瞬身を竦める。けれどそこには嵐が立っていた。スーツ姿のままで、真っ直ぐこちらを見ている。  凪は息を呑んだ。 「……なん、で」 「店長から連絡が来て、迎えに来た」  嵐は短く答える。それから凪の顔色を見て、ゆっくりした足取りで近付いた。 「帰るぞ」  嵐の言葉は、怒ってもいないし、深く問い詰めるような気配もない。だがそれが、余計に凪を苦しくさせた。  助手席に座ってからもしばらく、凪はまともに顔を上げることができなかった。  車が静かに走り出す。窓の外では街灯が流れていくのに、凪の思考だけがまだ店の中に取り残されていた。レジの前に立っていた男の印象と、その声。全部が嫌に生々しく蘇って、心臓がまた早鐘みたいに鳴り始める。  凪はじっとりと汗をかいた手を、膝の上でぎゅっと握った。  しばらく沈黙が続いたあと、ハンドルを握ったまま嵐が静かに口を開く。 「誰を見た」  淡々と、ただ事実を確認するみたいな声だった。凪は小さく息を呑む。唇がうまく開かなくて、歯がカタカタと鳴る。それでもどうにか声を押し出した。 「……わかり、ません」  自分でも情けないぐらい、小さな声だった。 「でも、その……あの人、かもって……」  そこまで言ったところで、言葉が止まる。あの男の顔を頭の中に浮かべるだけで、胃の奥がひっくり返りそうになる。  嵐はすぐにはなにも言わなかった。赤信号で車が止まる。静かな車内で、凪は膝を擦り合わせたまま続けた。 「顔、ちゃんと見えたわけじゃないです……横顔だけで……声も、似てただけかもしれなくて……」  言っているうちに、自分でもわからなくなってくる。もしかしたら本当に別人だったのかもしれない。ただ似た人を見ただけで、自分が勝手に怯えただけなのかもしれない。  そう思うほど、余計に惨めだった。 「なのに、おれ、逃げて……」  最後の方は、ほとんど声にならなかった。  せっかく働けるようになったのに。やっと外に出られるようになったのに。また駄目だった。  凪は唇を噛む。 「……おれ、辞めます」  ぽつりと零した声に、嵐がわずかに視線を向ける。衣擦れの音に、凪は空唾を飲む。 「またこうなったら、迷惑かけることになりますし……」  そう言いながら、凪は自分の膝を見つめる。迷惑を掛けるぐらいなら、最初からいない方がいい。昔からずっと、そうやって生きてきた。  すると嵐は小息をついた。 「辞めてもいい」  凪は顔を上げる。 「場所を変えてもいいし、時間帯を変えてもいい。昼だけにする手もある」  静かに、選択肢を並べる声だった。 「無理して続ける必要はない」  その言葉に、凪は黙り込む。誰かに肯定してもらえるとは思ってなかったからだ。  けれど、胸の奥では別の感情も渦巻いていた。 「……でも、辞めたく、ないです」  震える声が、車内の張り詰めた空気を揺らす。 「怖かった、ですけど……でも、おれ、働けるの、嬉しくて……」  皿を洗って、お給料をもらって、自分で買い物をして、家に帰る。そんな当たり前のことが、自分にもできるのだと知ったばかりだった。  嵐は黙ったまま凪を見る。信号が青に変わり、車がゆっくり動き出した。 「なら、条件を変える。送り迎えは俺がする。帰りも一人にしない」  凪は目を見開いた。 「そ、そこまでしてもらうわけには」 「お前は俺に風香を任せてるだろ」  即座に返されて、凪は言葉に詰まる。嵐は前を向いたまま続ける。 「支える側が一方だけだと思うな」  その声はいつも通り落ち着いていた。凪は一瞬意味がわからなかった。けれどその意味が飲み込めた時、凪はその言葉を、静かに胸の中にしまった。  凪は窓の外へ視線を向ける。街の灯りがぼやけて滲んで見えた。怖さが消えたわけじゃない。  たぶん、明日もまた同じような人を見たら、身体は固まるだろう。  それでも、今は一人じゃなかった。

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