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夜明け前│いい子じゃない

 閉店後の店内は静かだった。  最後の皿を片付け、濡れた手を布巾で拭いながら、凪はふうと息を吐く。店長に「お疲れ様です」と頭を下げ、そのまま裏口から外へ出た。  夜風が頬を撫でる。季節は春に向かっていて、けれどまだ肌寒い日が続いていた。  道路脇には、迎えに来た嵐の車が停まっていた。見知ったナンバープレートと赤ちゃんマークの黄色いステッカーを見ただけで、仕事の疲れがたちまち癒される。  助手席へ向かおうとした、その時だった。 「凪?」  背後から声がした。  足が止まる。  よく知っている声だった。  店で聞いたのと、同じ。 「やっぱり凪じゃないか」  その声にゆっくり振り返った瞬間、身体が強張った。  そこに立っていたのは、スーツ姿の男だった。髪は短く整えられ、疲れた会社員みたいな顔をしている。  電車に乗ればどこにでもいそうな、ごく普通の男だった。  けれどその顔を見た瞬間、凪は心臓を直接掴まれたような心地に襲われた。 「……っ」  男は自然な足取りで近付いてきた。まるで偶然知り合いを見掛けて声を掛けただけみたいに。 「久しぶりだな。元気にしてたか? 一緒にメシでもどうだ?」  距離が近付く。 「時々客から連絡来るんだ、お前に会いたいって。お前もよくしてもらったろ?」  ふと、男の目の色が変わる。 「……お前、あの時のこと、誰かに話してないよな?」  静かな声だった。怒鳴るわけでもない、ただ確認するみたいな口調。 「い、や……」  反射的に後ずさろうとした瞬間、腕を掴まれた。嗅いだことのある煙草のニオイに、全身の毛が逆立った。そのあとに必ずされていた行為を思い出して、体が反射的に強ばる。逆らったらどうなるのかも、よく覚えている。  それでも、凪はどうにかその手を振り払おうとした。けれど思ったよりも力が強く、振り払えない。  ――逃げられない。  その時、運転席側のドアが開く音がした。 「どうした」  低い声が割って入る。振り向くと、嵐が車から降りてくるところだった。 「嵐さん……っ!」  凪とその隣に立つ男を見た嵐の目が、鋭く細められる。彼が素早くこちらに駆け寄ると、ようやく男は手を離す。それだけで、凪はようやく息を吸えた。  無言のまま、嵐が凪の前へ立つ。スーツを着た背中が、いつもより広く見えた。 「なんの用だ」  静かな、けれどどこか圧がある声だった。この男が誰であるか、嵐はもう気付いている。最初から警戒を隠していない。  男はそんな嵐を見つめて、やがてふっと笑った。 「もしかして、貴方がこいつの面倒を見てくれていたんですか?」  柔らかくて、どこか愛想のいい声だった。 「うちの凪が世話になりました。迷惑かけてすみません」  義父はそう言って手を伸ばす。凪ははっと息を吸う。足が一歩も動かない。 「……ほら、凪、帰ろう。お腹すいたろ?」  男が当然みたいに言う。その瞬間、嵐の纏う空気が一瞬で張り詰めた。 「――二度と話しかけるな。目の前にも現れるな」  そしてそう短く言い切る。男は一拍黙ったあと、困ったみたいに肩を竦めた。 「すごく警戒されてますね、俺」 「失せろ」 「そんな言い方しなくても。凪のこと、心配してたんですよ?」  義父はハハッと軽く笑った。その時、不意に男の視線が車の中へと向く。凪の体は反射みたいに一歩動いていた。車内を隠すように立ちはだかる。だがすぐに男は視線を二人に戻した。 「……そっか。子供、産まれたんだな。施設に預けると思った。産むとも思ってなかったけど」  思い出したようにそう言って、義父は小さく笑う。 「その人が面倒見てくれてるのか。お前、随分図々しくなったな。人の家庭を壊して、その人の人生をなんだと思ってるんだ」  凪の指先がぴくりと動く。同時に、頭の中がぐるぐると掻き回される。  嵐の家庭。嵐の人生。わかっている。何度も考えたことだ。  それでもそばにいたいと思ったから。嵐が他の人と結ばれても大丈夫だと思ったから、帰ってきた。  なのに。 「迷惑掛けるなって、いつも言っただろう?」  義父の目は本気で凪を心配しているように、凪を見ている。咄嗟に視線を逸らす。  傍から見れば、単なる親子喧嘩に見えるだろう。  ……昔、家を抜け出して、警察に行ったことがある。出てきた警官に、全部言おうと思った。けれどその瞬間に、後ろから肩を叩かれた。そしてさっきみたいなことを言われた。帰ったあとで、なにをされたのかも。  凪は足の付け根が熱くなったような感覚を覚えた。  恐る恐る嵐を見る。嵐は、義父を見ていなかった。  ただ凪を見ていた。 「凪」  低い声が呼ぶ。肩が震える。 「お前はどうしたい」 「……凪、いい加減にしろ。この人を困らせたくはないだろ?」  昔と変わらない声だった。穏やかで、静かで、でも、だからこそ逆らえなかった声。  昔なら従っていた。怒らせないように。殴られないように。  ずっと、そうやって生きてきた。 「なあ凪。……お母さん、ますます帰ってこなくなるぞ」  義父の声が優しく届く。心臓が跳ねる。  お前のせいで母さんは出て行った。お前がいい子にしてれば帰ってくる。自分さえ我慢すればいい。言うことを聞いて大人しくすればいい。  その言葉は、いつも凪を縛った。ずっとそうだった。  けれどもう、あの人は帰ってこない。  どれだけ我慢しても、いい子にしようとしていても。 「……っ」  それでも、今は帰る場所がある。待ってくれる人がいる。  凪はゆっくり顔を上げた。  視界の端に嵐がいる。嵐は急かさない。代わりに、答えを教えることもしない。  ただ、凪が自分で決めるのを待っていた。  凪はゆっくり後ずさる。背後には風香がいる。自分を待ってくれている、小さな子。  嵐さんと、自分の子。 「……嘘つき」  そして、凪はゆっくり首を振った。 「か、」  声が喉に引っかかる。膝ががくがくして、すぐ目を逸らしそうになる。心臓が、口から今にも飛び出そうだった。  それでも凪は唇を震わせながら、義父に言った。 「……か、帰りません」  男は目を見開く。 「俺は、帰りません」  声は震えていた。足もまだ怖かった。今すぐ逃げ出したかった。  それでも、一歩だけ後ろへ下がる。嵐のいる方へ。  義父の眉がわずかに寄る。 「凪。いい加減に――」 「嫌です」  初めて遮った。自分でも驚くほど、はっきりした声だった。義父が黙る。凪は唇を噛んだ。  心臓が痛いほど鳴っている。それでも、視線だけは逸らさなかった。 「俺は、この子と、嵐さんのところに帰ります」 「凪」 「それに」  喉が張り付く。言ってしまえば、今まで隠してきたものが全部外へ出てしまう気がした。  それでも、風香を守りたかった。嵐が守ってくれたものを、今度は自分も守りたかった。  知らないふりをする人にも、傷付ける人にもなりたくなかった。 「これ以上、この人や、この子に近付くなら」  声が震える。  義父の顔を見る。真正面から、目を逸らさずじっと睨む。 「俺はもう、黙りません」  義父の表情が初めて変わる。 「俺がなにをされたか。なにを、させられたか。……全部、話します」  風の音だけがする中で、凪は震える手を握り締めた。  もう、いい子にはなれなかった。  男は目を見開く。凪は嵐を見る。穏やかで、力強くて、でも優しい顔だった。 「……帰ろう、凪」  そして嵐がそう言う。それだけだった。でも、頷くには十分だった。 「はい」  男はしばらく二人を見ていた。やがて、ふっと笑う。 「……よほど面倒見がいいんですね、貴方」  その笑みは、どこにでもいる会社員みたいに穏やかだった。納得している雰囲気はないが、これ以上は手出しできないと思ったのだろう。 「よかったな。お前みたいなのでも受け入れてくれる人がいて。今度は捨てられないようにしろよ」  凪の背中に、乾いた笑い声が突き刺さる。ドアを開けようとした指先が冷たくなる。けれど嵐はなにも返さず、凪の代わりに助手席のドアを開けた。凪はそのまま車へ乗り込み、すぐにロックをかける。嵐は男から目を離さないまま、運転席に乗った。  ドアが閉まり、エンジン音が静かに響く。やがて車がゆっくり動き出し、一つの影を置いて走り去る。  凪は一度だけ後ろを振り返った。あの男を見るためではない。後部座席に視線を向ける。チャイルドシートの中で、風香は静かな寝息を立てていた。  その小さな姿を見て、凪はようやく深く息を吐く。まだ震えは止まらない。  家に着くまで、凪はずっとシートベルトを強く握り締めていた。

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