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夜明け前│ここにいること
信号待ちのあいだ、車内は静かだった。エンジン音だけが低く響いている。
しばらくして、嵐が前を見たまま口を開いた。
「なにか飲むか」
凪は少し考える。
「……帰ったら、カフェオレ、飲みたいです」
「わかった」
それきり、車内は静かになる。けれどしばらくして。
「もし訴えたいなら、手伝う。診断書も、手続きも。俺がお前の証人にもなれる」
凪は顔を上げた。そしてフロントガラスの向こうを見つめたまま、小さく息を吐く。
「……その時は、助けてください」
嵐は短く頷いた。
「任せろ」
凪は相変わらず、シートベルトを握り締めていた。指先に力が入りすぎて、少し痛い。
後部座席では、風香が静かな寝息を立てている。時々小さく身じろぎするたび、凪は反射みたいに振り返っては様子を見た。
風香に寝かしつけたあと、リビングにはコーヒーとミルクの匂いがしていた。
凪はソファの端に座ったまま、マグカップにも手をつけられずにいた。
頭の奥で、さっきの声がまだ反響している。
――施設に預けると思った。
「……っ」
無意識に肩へ力が入る。それは昔、自分が思っていたことだった。風香が産まれる前から、何度も考えた。自分なんかに育てられるわけがない、と。
凪は俯いたまま、小さく唇を噛む。
「すみ――」
言いかけて、止まる。けれど拾われた。隣に座っていた嵐が静かに顔を上げる。
「なにに対してだ」
凪はすぐに答えられず、言葉に詰まった。
言いたいことは、いっぱいあった。怖かったこと。また動けなくなったこと。嵐を巻き込んだこと。
それから。
「おれも、前に……思ってた、ので」
絞り出すみたいに言う。
「施設に預けた方が、幸せなのかもって」
部屋が静かになる。凪は目を伏せたまま続けた。
「やっぱり一人じゃちゃんとできないし」
言いながら、喉の奥がひりつくように痛かった。
最低だと思う。あんなに小さい風香を、手放すことを考えていた自分が。
だが嵐は否定しなかった。
「……お前一人なら、そうだったかもしれない」
ただ、静かな声が受け止める。慰めるでも、責めるでもない。でも、誤魔化されもしなかった。
嵐は少し間を置いてから続ける。
「正直、俺一人でも同じことを考えただろう」
「え?」
「だが、今は違う。お前一人で育ててるわけじゃない」
その言葉に、凪の睫毛が震えた。
嵐はテーブルの上のカップを手前へ寄せる。
「風香も、お前も、ここにいる」
淡々とした、だが優しい声が、当たり前の事実を確認するみたいな言葉に乗る。けれどその「当たり前」が、凪にはまだ少し眩しい。
凪は震える指でマグカップを包み込む。その熱を手の中に従えて、凪は見下ろす。
隣の部屋からは、小さな寝息が聞こえてくる。
凪は目を閉じる。
……この人は、どうしてここまでしてくれるのだろう。彼なりのやり方で、彼なりの言葉で、寄り添ってくれているのだとわかる。けれど、風香と二人、寄りかかるには重すぎる。
帰る場所があることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
だから、いつか。
嵐に支えられるだけじゃ、なくなりたかった。
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