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夜明け前│朝焼けの中で

 夜明け前の部屋に、風香の泣き声が響く。 「ふぇ……っ」  凪は反射みたいに身体を起こす。隣では、嵐が眠っていた。完全には起きていないものの、眉間に皺を寄せて小さく唸っている。 「んん……」  その顔を見た瞬間、凪の心臓がぎゅうと締め付けられた。  明日は、仕事が早いと聞いていた。昨日だって、寝る直前まで風香をあやしながら遅くまで資料を見ていた。  ……起こさないようにしなきゃ。  凪は慌てて風香を抱き上げ、そのまま寝室を出た。リビングへ移動しても、風香はなかなか泣き止まない。 「うぇぇぇぇん!」  小さな背中に手を当てると、体の奥から響く泣き声の振動がダイレクトに伝わる。一体どこにそんな体力があるのか、不思議でならない。そんな背中を必死で撫でながら、凪は何度も「泣かないで……だいじょうぶだから……」と囁いた。それでも風香は火がついたように泣いている。止まない泣き声に、凪は焦る。慌ててミルクを作っても飲む気配はない。おむつも、なんともなかった。 「風香……いい子だから、静かにして……」  思わず凪も泣きたくなる。一瞬、口元に手が伸びそうになる。けれどその瞬間、はっと手を止めた。強く塞ぎそうになって、慌てて違うと否定する。  凪は風香を揺らしながら、嵐のいる寝室に目を向ける。じわ、と目元が熱く滲んだ。  やがて凪は上着を羽織り、靴を履いて外に出た。ガチャン、と背後でドアが閉まる。そのまま、凪はまだ暗い外へと足早に歩き出した。  朝方の空気は少し冷たくて、静かだった。どうにか家々の輪郭がうっすらわかるぐらいの時間の中、夜風を浴びながらマンションの前を何往復かする。風香はしばらく泣き続けていたが、やがて普段とは違う空気に気付いたのか、涙に濡れた目で不思議そうに辺りを見回した。それから次第に声は小さくなり、ぐずるみたいに短く息を漏らしたあとで、静かになっていく。 「……よかった」  泣き声が止んでから、凪はほっと安堵の息を吐く。  しばらく歩いているうちに、風香はようやく寝息を立て始めた。凪はその小さな身体を抱え直し、部屋へ戻ろうとする。  そこで初めて、上着のポケットを探った。 「……あ」  鍵が、ない。  寝室に置いたままだということを思い出して、凪の顔からさっと血の気が引いた。  開かないドアと、エントランスのオートロックを何度も見比べる。嵐の部屋番号を押して、呼び出せばいいとはわかっている。だが、それだけなのに指が動かなかった。せっかく起こさないように出てきたのに、これでは意味がない。 「……どうしよう」  呟いた声は、朝の空気に溶けて消える。住宅街には、少しずつ朝日が差し始めていた。空が白んでいく。凪は部屋番号を入力するパネルに向かってそっと手を伸ばした。  呼び出しボタンを押せば済む。それだけのことなのに、指が動かなかった。起こしたくなかったし、心配もかけたくなかった。  ……もし、また自分がいなくなったら。  風香とどこかへ、遠くへ行ったら。  考えそうになった瞬間、ふと思い留まる。  そして、また新しい考えが浮かぶ。  自分は今、嵐にとってなんなんだろう。  キスもしたし、抱かれたこともある。出産前のあの日のことを思い出し、凪は少しだけ唇を噛む。客に買われた時とは全然違った。  怖いとは感じなかった。むしろ、嬉しかったし、もう少し、という気持ちもあった。けれど映画で見た恋人同士とも、少し違う気がした。あの時は、自分が優しさを知りたいと我儘を言っただけだ。誕生日に手を握ってほしいと頼んだ時みたいに、単純に応えてくれただけなのかもしれない。  嵐は元々そういう人だ。困っている人を放っておけない。だから、風香ごとおれを助けてくれた。婚約を解消したのだって、責任を取っただけだ。おれのためじゃない。……あれは、きっと、明日香さんのためだ。  凪はぎゅっと眉間に力を入れる。  もし、嵐に好きな人ができたら。  もし結婚したい人を見つけたなら、応援しなきゃいけないんだと思う。  そしてその時、自分は風香を連れて出て行くんだと思う。  けれど、風香の父親は嵐だ。  血は繋がっていない。過去を知っている。それでも、誰よりも風香を大事にしている。風香だって、嵐を見ると嬉しそうに笑う。そんな二人を、引き離していいんだろうか。  もし本当に出て行くなら、朝、仕事へ向かう背中も、「おかえり」と言う声も、休日に三人で出掛けることも、もう、なくなる。  そうやって本当に一人になる日を想像すると、胸が締め付けられる。 「……あ」  凪はそっと胸元を押さえた。  最近、時々こうなることが多い。嵐と目が合った時や、名前を呼ばれた時。仕事から帰ってきた姿を見た時、必ずここが落ち着かなくなる。  理由はわからない。苦しいわけじゃない。むしろ少し嬉しい。カフェオレを飲んだ時みたいに、苦いのと、甘いのがある。  だから余計によくわからなかった。  嵐だけだ。  今までの客や、夏樹にはなかった感覚。  こんなのは、初めてだった。  変なんだろうか。けれどそれすらもわからない。  いつもなら、わからないことは怖くて、すぐに忘れようとした。  でも今は、もう少し、このままにしておきたい気がした。  その時だった。  マンションのエントランスの扉が勢いよく開く。びっくりして見ると、寝巻きのままの嵐が慌てた様子で外へ出てきた。凪を見つけた瞬間、その顔がはっきり変わる。 「……いた」  張り詰めた顔が緩んで、上擦った声が聞こえた。凪を見つけた瞬間、嵐の肩から力が抜ける。その顔を見た時、不意に由布院の朝を思い出した。 「あの、」  そう声にした時、嵐は真っ直ぐ歩いてくる。怒られると思って、一瞬だけ首を竦める。だが嵐は凪を見て、それから静かに風香を抱き上げた。眠ったままの風香を抱いて、ようやく嵐が凪を見る。 「勝手にいなくなるな」  咎めるみたいな声だった。けれど、その目には安堵の色も浮かんでいる。嵐は眠っている風香の頭をそっと撫でる。その光景に、凪は思わず頭を垂れる。 「起こしてしまうかと」 「起こせ」  反射的に返ってきた声に、凪は弾かれたように顔を上げた。 「仕事は、俺がいなくても回る。気にすることはない。……何度も言っているだろう」  嵐は淡々と言った。それから少しだけ視線を逸らし、小さく付け足す。 「……俺も、よく泣いて親父を叩き起こしていた」  凪はぽかんと嵐を見る。 「嵐さんが、ですか」 「ああ」  真顔で頷かれて、凪は自然と想像していた。風香みたいに小さい嵐が、夜中に泣いて、周りの大人が飛び起きる。だけどどうしても想像が追いつかなくて、けれど、少しだけ可笑しかった。 「……ふ、」  小さく声が漏れると、嵐が怪訝そうに眉を寄せた。 「なんだ」 「いえ……その……」  凪は笑いを堪えながら首を振る。  朝日が、ゆっくり三人を照らしていた。

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