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最終章 嵐と凪と│零れた本音

「……明日香さん」  失踪する前に、一度だけ会った女性だった。長い髪をまとめ、落ち着いた色のワンピースを着ている。しゃんと伸びた背筋に、凪も無意識に姿勢を正す。 「久しぶりね、凪くん。元気そうでよかったわ」  明日香は微笑みながら席へ着く。凪は慌てて頭を下げた。 「お、お久しぶりです……」 「そんなに緊張しなくていいわよ」  そう言いながら、明日香の視線がベビーカーへ向く。ふっと表情が柔らかくなった。明日香はベビーカーの横へしゃがみ込む。 「こんにちは」 「あー」  風香が機嫌よく手を伸ばす。明日香は少し驚いたように笑った。 「可愛いわねぇ。お名前は?」 「風香です。風に、香ると書きます」 「あら、奇遇ね。私も明日に香って書くのよ」 「えっ」  そう言われて、思わず明日香と風香を見た。それから嵐を見る。……嵐は、気にならなかったのだろうか。  そういえば、なぜ嵐は明日香と自分を引き合わせたのだろう。なにか大事な話でもあるのだろうか。 「そうだ、早いうちに渡しておくわ」  明日香がバッグを開き、小さな包みを取り出して風香の前へ置く。 「出産祝いよ。遅くなったけど」  凪は戸惑った。 「そんな……」 「受け取って」  そう言われて、凪は小さく頭を下げた。 「ありがとう、ございます」  言いながら、ほっとする。なんだ、用事ってこれのことだったのか。凪が息を吐きかけた、その時だった。 「あと」  明日香が鞄から封筒を取り出した。 「これも返すわね。友人からサインももらってるわ」  それを嵐へ差し出す。嵐はそつなくそれを受け取る。 「ああ」  自然なやり取りだった。そうして、嵐は封筒の中から一枚の紙を取り出す。視線はついそちらへ向く。なにかの書類みたいだった。けれどそこに「婚姻届」の文字と書かれていた名前を見て、凪の胸は突如心拍数を上げた。  黒川嵐。  凪の思考が止まる。心臓が一度だけ大きく鳴る。 「え……」  二人の前で、凪はその紙から目を離せなくなった。それと同時に、腑に落ちる。  ああ、やっぱりそうか。  そういうことだったのか。  会わせたい人、という言葉が蘇る。  久しぶりの再会、そして婚姻届。時折嵐からした、香水の匂い。全部が繋がる。視界から色が消えていく。けれど、当然だと思った。嵐も明日香も、ちゃんとした人だ。  凪は膝の上で拳を握った。祝わなければと思った。覚えた笑顔を作ろうとしたけど、上手く息が吸えなかった。  聞こえてくる会話は上手く頭に入ってこない。明日香がなにかを言っていて、嵐が短く返す。風香は楽しそうに声を上げている。それなのに、まるで自分だけが遠くにいるみたいだった。  胸の奥が妙に重い。  嫌だ。  嵐が結婚することが、明日香と並ぶことが、全部。そんな資格はないのに。  それでも、嫌だ。 「凪くん? ……大丈夫?」  明日香の声がする。けれど上手く顔があげられない。 「え……あ……」  言え。言うんだ。ちゃんと、自分の口で。  凪は爪が食い込むほどぐっと拳を握りながら、ゆっくりと顔を上げる。唇が震えていた。けれどどうにか笑いの形を作る。 「お……おめでとう、ございます」  その瞬間、二人とも静かになった。  先に沈黙を破ったのは、明日香だった。 「ちょっと待って」  明日香の震えた声に、凪はますます拳を強く握る。けれど顔を上げてよく見ると、明日香は肩を震わせながら笑っていた。 「え……?」  凪はぽかんと口を開け、それから嵐を見る。 「ねえ、この子、勘違いしてるわよ」  嵐が眉を寄せる。明日香はテーブルの上の紙を指差した。 「まさか、説明してないの?」  嵐の切れ長の目は、封筒と、そして凪を見る。嫌な予感がした。 「……凪」 「は、はい」 「なにを勘違いした」  その聞き方で、凪の心臓が止まりそうになる。現実を口にするのが、怖くてなにも言えない。  嵐は静かにコーヒーに口を付け、それから言った。 「その婚姻届は俺のものだ」  凪は小さく頷く。知っている。 「保証人の欄も埋まってる。明日香に頼んだ」  それも知っている。だから、結婚する。  明日香は首を傾げる。 「私と嵐が婚約破棄したの、知ってるのよね?」 「は、はい。……でも、やり直すことにしたん……ですよね?」  そう思ったその瞬間、明日香が凪を指差した。 「やっぱりそう思ってたのね!」  凪は固まる。嵐は額を押さえた。 「凪、違う。よく見ろ」  珍しく嵐は早口でそう言った。凪は瞬きをする。  嵐は婚姻届を凪の前へ置いた。そこには確かに嵐の名前がある。けれどその隣、肝心の欄が空白だった。  明日香の名前は保証人欄のところにあった。……よく見ると、なぜか夏樹の名前もある。  凪はゆっくり目を見開く。そしてもう一度紙を見る。だが何度見ても、嵐の隣は空白だった。 「……あれ」 「貴方の由布院のお友達にも連絡して、書いて郵送してもらったわ。だから返しに来たの」  明日香が笑う。凪の思考が追い付かない。 「私と出す予定だった婚姻届よ。でももう、私には必要ないわ」  そう言って、明日香は当然みたいに肩を竦めた。凪は二人の顔を交互に見る。そこで気付いた瞬間、顔が一気に熱くなった。 「…………」 「凪くん?」 「凪?」  穴があったら入りたかった。いや、今すぐ消えたかった。そんな凪を見ながら、明日香は微笑む。 「もう、本当に素直ね」  凪は顔が赤くなっていることを自覚しながらも俯いた。  そして小さな声で呟く。

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