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最終章 嵐と凪と│祝福
「……お、俺、てっきりお二人が結婚するのかと……」
一瞬、周囲がシンとなる。やがて、再び明日香は吹き出した。
「違うわよ」
明日香の弾けるような笑い声に、凪は顔を上げられないまま固まっていた。
顔が熱い。恥ずかしい。勘違いしていたこともそうだ。けれど、それ以上に、胸の奥に溜まっていたものが行き場を失っていた。
「……嵐さん」
小さく呼ぶ。
「なんだ」
凪はゆっくり顔を上げた。嵐を見た瞬間、鼻の奥がつんとする。安心したら、急に腹が立ってきた。
「……からかったんですか」
「は?」
「だって、会わせたい人がいる、って……」
声が震えると同時に嵐が眉を寄せる。凪は唇を噛んだ。
「婚姻届だって……」
「……それは、お前が変なことを言うからだ」
「意地悪です」
自分でも子供みたいだと思った。でも止められなかった。明日香の笑い声が止み、静かに凪を見る。凪はまた俯いて、シャツの裾を指先でいじる。
喉の奥が熱い。必死に堪えようとしたのに、視界が滲む。
「……っ」
ぽたり、と雫が落ちた。泣くつもりなんてないのに、止められなかった。
「おい」
嵐の声が近くなる。けれどもう遅かった。張り詰めていたものが切れたみたいに、涙が次々溢れてくる。
「だって、俺……嫌、だったんです」
ぐしゃぐしゃになった声が漏れる。
嵐とは、もう一緒にはいられないのだと思った。風香と二人で暮らす未来も、考えていた。
それが本当は、どれだけ嫌だったか。けれどいつかそうしなければと、本気で思っていた。
凪は下を向いたまま言う。
「嵐さん、本当に、結婚するんだと思って……俺、もう一緒にいられないんだと思って」
ひっく、と喉の奥でしゃくり上げる。
「凪」
名前を呼ばれる。
「はい」
「……お前、本気で出て行くつもりだったのか」
探り探りの言葉だった。凪の肩が震える。否定はできなかった。
「は、はい」
「……やっぱりそうか」
嵐は一度だけ目を閉じた。
「だからお前は、いつも勝手に決めるな」
そして目を開ける。凪が顔を上げる。
「俺はそんな話をした覚えがないだろう。誰がお前を追い出すと言った」
凪は言葉を失う。嵐はそこで婚姻届を見た。そして静かに言う。
「これは、返してもらったんだ」
嵐は当然みたいに言った。凪もまた婚姻届を見る。嵐を見る。もう一度婚姻届を見る。
意味がわからなかった。
「……返して、もらった?」
「ああ」
「なんで?」
そう呟いた瞬間だった。明日香が深いため息をついた。それから大きな目が凪を見る。アイシャドウのラメが光った。
「ねえ凪くん。普通、結婚する気のない相手のために婚姻届なんて持ってこさせないわよ。そのために、貴方を連れてきたんだから」
凪は固まる。
「え」
「え、じゃないわよ」
明日香は呆れたように笑った。
「この人、昔からこうなの」
嵐が嫌そうな顔をする。
「余計なことを言うな」
「余計じゃないでしょ。私との結婚をやめたのもそう。由布院まで貴方を追いかけて行ったのもそう」
明日香は肩を竦めた。
「全部、貴方がいるからよ。貴方のせい、じゃない。凪くんだからよ」
テーブルが静かになる。凪は言葉を失った。嵐も否定しない。ただ小さく息を吐く。
「明日香、もうその辺にしろ」
「はいはい」
明日香は笑った。嵐は観念したように目を伏せる。テーブルの上に置かれた婚姻届を押さえていた指先が、わずかに震えていた。
凪は目を瞬かせる。
「凪」
「は、はい」
いつになく真剣な声で呼ばれて、自然と背筋が伸びる。
……嵐が緊張している。そんな姿を、初めて見た。気のせいか、顔も赤く見える。それからもう一度、凪へと顔を向けた。
嵐は気を取り直すかのように、何度か深呼吸をする。それから、ゆっくりと口を開く。
「俺は、お前がいる未来を選んだ」
嵐はポケットへ手を入れる。そして小さな箱を取り出した。凪は固まった。片手に収まるほどの長方形のそれは、婚姻届より心臓に悪い。
「え」
思わず声が漏れる。嵐は箱をテーブルの上へ置いた。そして静かに、丁寧な手つきで箱を開く。中には銀色の指輪が二つ並んでいた。
余計な装飾はない。けれど、綺麗だった。
「俺の隣で、生きて欲しい」
そう言われて、凪は息を呑んだ。
たちまち、指輪と嵐の輪郭がぼやける。
「急がなくていいし、断ってもいい。……お前が、選んでいい」
凪は唇を噛んで、嗚咽を殺した。
――思えば、昔から選ぶことなんて許されなかった。
けれど嵐は違う。いつも最後は、自分に選ばせてくれる。
「俺は待てる」
その言葉に、涙が零れた。拭っても拭っても、追いつけない。
「……ずるいです」
「なにがだ」
「そういうところです」
声が震える。凪は何度も袖で目を擦った。けれど涙は止まらなかった。
「俺」
息を吸う。逃げないように。ちゃんと伝えられるように。
「一緒にいたいです」
揺らぐ視界の中で、嵐だけが真っ直ぐ見える。
「嵐さんと、風香と……ずっと、一緒に」
はらはらと零れた涙で頬が濡れる。さっき流した安堵の涙よりも熱くて、とめどない。すでに胸がいっぱいで、それ以上はもう、なにも言えなかった。
やがて嵐が静かに頷く。
「ああ」
短くて、でも確かな頷きに、凪はまた泣きそうになった。悲しくないのに、涙が出た。
嵐は箱から一つ指輪を取り出した。そして凪の隣へ歩み寄り、その場で跪く。
「凪。……手を」
凪は慌てて左手を差し出す。少し震えていた。嵐の大きな掌に、凪の手が乗る。嵐の手も、震えていた。
やがて、嵐の指が薬指へ指輪を通す。それは驚くほど自然に収まった。まるで、最初からそこにあったみたいに。
凪は呆然とそれを見つめた。
「……変じゃ、ないですか」
「似合う」
凪はぐしゃぐしゃの顔のまま、笑っていた。……笑えていた。嵐もつられて、ふっと笑みを零す。嵐の鼻の頭も赤くなっていて、鋭い印象のあった目元は、優しく濡れていた。
「貴方ね、もっと自信持ちなさい」
不意に明日香が口を開いた。
「嵐はもうとっくに選んだのよ。嵐に失礼じゃない。あと私にも」
そう言われて、凪はつい目を伏せる。
「でも……」
「いらないなら、私がもらうけど」
「だ、だ、だめです。……嫌、です」
反射的に声が出た。明日香は目を丸くする。それから、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ふふ。いい顔するじゃない」
横で嵐が小さく息を吐いた。
「あまり凪をからかうな」
「それ貴方が言う?」
「うるさい」
明日香は肩を竦め、それから小さく拍手をする。
「おめでとう」
優しい声だった。凪は顔を上げる。明日香も穏やかに笑っていたけど、彼女の目も、少しきらきらしているように見えた。
「二人とも、お幸せにね」
明日香のその言葉に、凪は「はい」と頷いた。
「あぶぅ!」
よく見るとベビーカーの中の風香も、真似して自分の手をぺちぺちしていた。
拍手しているように見えるそれに、三人は顔を見合せて笑った。
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