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最終章 嵐と凪と│過去と未来

 ◇ ◆ ◇  明日香は帰宅してから、しばらく眠れなかった。  ホテルのラウンジで別れたあとも、嵐の顔が頭から離れない。  あの男は昔から変わらない。責任感が強くて、不器用で、自分のことになると途端に馬鹿になる。  窓際に立ちながら、明日香はグラスの水を口に含む。  ――三年、待ってもらえるか。  思い出して、思わず笑ってしまった。  由布院から帰ってきた嵐を、しばらくして呼び出した時のことだった。婚姻届をまだ持っている明日香の元へやってきた彼は真顔で、けれどこの上ない気まずさを感じているのがわかった。それでも、あの場で必死な顔でそう言うのだから救いようがない。  三年待って、そのあとどうするつもりだったのだろう。  凪とあの子の生活を安定させて。仕事を見つけて、住む場所も用意して。  そうして全部整ったら、自分のところへ戻って来るつもりだったのか。 「馬鹿ね」  小さな声が零れる。そんなわけがない。本人だけが気付いていなかった。凪がいなくなった時の嵐を、明日香は見ていた。  あれは責任感ではない。義務感でもない。ましてや、アルファの本能なんかでもない。  眠れず、食事も取れなくなっていて、理路整然としていた部屋は散らかっていた。婚姻届を差し出してまで助けを求めた。  あんな顔をする男を、明日香は知らなかった。そして、あの子のことも。  最初に嵐の部屋を訪ねた時だってそうだ。  婚約破棄の話をされる少し前から、嵐の様子は変だった。返事が遅い。水族館に行く。デートの話もはぐらかす。その時点から、なんとなく隣に誰かいるような気がした。  だから嵐の家に向かうまで、どんな高貴な人間がいるのだろうかと想像していた。  けれどそこにいたのは、全然違う。痩せた身体の、妊娠したオメガがいた。その目は人の顔色ばかり窺って、アルファベットも書き慣れていなかった。  そこで、今度は違う話が頭の中に浮かんだ。  思い描いたのは、陳腐な恋愛小説だった。運命の出会いがあって、フェロモンで惹かれあって、愛の結晶をお腹に宿した。  けれど、そんな単純な話でもなかった。  あの子がどんな目に遭ってきたのか、あの子がどんな人生を歩いてきたのか。お腹の子が、嵐との子ではないことさえ知らなかった。  自分が被害者だと思っていた。  婚約者を奪われた女。  あんな子より、私の方が――  だから、あの日。 『その代わり、私と結婚して』  あんなことを言った。凪を探すのに必死になっていた男に対して、婚姻届を盾にした。  あれは取引なんかじゃない。  脅迫だ。 「最低ね」  誰もいない部屋で呟く。  もし最初から知っていたら。あの子が虐待を受けていたことも、嵐がどんな思いで守っていたのかも知っていれば、あんなこと、言えなかった。  私の方が? 違う。私の方がなんだというのだろう。  家柄? 教養? 仕事? 資産? 隣に立った時の釣り合い?  全部ある。全部、あの子より上だろう。けれど、だからなんだというのだ。嵐は一度も、それを求めなかった。  あの男が欲しかったのは、守りたかったのは、全部、あの子だった。  彼かもしれない影が映ったスマホを握り締め、親指でそっと触れていた嵐を思い出す。仕事も家も未来も、全部投げ捨てて走り出しそうな顔をしていた。  そんな顔を、自分に向けられたことは一度もない。そしてそれはきっと、これからもだ。  負けたわけではない。選ばれなかったのでもない。もっと単純な話だ。  嵐は最初から、自分を見ていなかった。  二人で会った時、ラウンジで自分は聞いたのだ。 『あの子のことが好きなんでしょ』  あれは確認ではない。答え合わせだった。嵐はすぐには答えなかった。けれど沈黙が、なにより雄弁だった。  明日香はふっと笑う。  悔しくないと言えば嘘になる。長い時間をかけた。隣に立つ未来を、明日香も望んでいた。  学祭で彼を見た時、地味な男だと思った。だが仕事に対しては誠実で、結婚するならこの人がいいと言った。けれどその申し出をした時も、彼の瞳は冷静だった。  大事にしてくれていたのは知っている。デートも、親との付き合いも、求められればちゃんとする人だった。  それでも。 「仕方ないじゃない」  好きになってしまったのだから。自分ではなく、あの子を。  窓の向こうには、夜景が広がっている。カシミヤのカーディガンを羽織りながら、明日香はスマートフォンを開く。  連絡先の一番上にいる、彼の名前。  しばらく見つめたあと、静かに画面を閉じた。 「ほんと、敵わないわね」  それはもう、届かない独り言だった。

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