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最終章 嵐と凪と│おそろい
◇ ◆ ◇
家へ帰ってからも、凪は何度も左手を見ていた。夕飯の準備をしている時も、風香にミルクを飲ませている時も、問題集を解いているあいだも、気付けば薬指へと視線が注がれている。
銀色の輪は、いつまでもそこにあった。ちゃんと、自分の指にはまっている。
何度見ても不思議だった。
風香を寝かしつけたあと、凪はソファへ腰掛ける。リビングにはテレビの音もなく、静かな時間が流れていた。
嵐は隣で、静かにコーヒーを飲んでいる。凪はまた、そっと指輪へ触れた。指先でなぞると、硬くて、ひんやりした感触が帰ってくる。
「そんなに気になるか」
穏やかな夜に似た声がした。凪は少し照れながら笑う。
「……はい」
嵐がコーヒーカップを置く。
「気付いたら見ちゃいます」
そう言いながら、また指輪を見る。夢みたいだった。朝起きたら消えているんじゃないかと思うぐらい。けれど名前を書いたあとの手の震えも、まだ鮮明に思い出せる。
凪はもう一度薬指を撫でた。
「首輪と違って、ボロボロにならないのも、いいです」
昔、母からもらった首輪をずっと付けていた。新しいのがなかったからそれを付けていたというのもあるけれど、ボロボロで、今にも壊れそうだった。
けれど、これは違う。思わず笑ってしまう。
「なんか、不思議です」
そう言って顔を上げた瞬間、嵐が大きな手を伸ばした。その指が凪の薬指へ触れる。指輪をなぞるように、ゆっくりと。
ㅤ嵐のその熱を感じて、凪は息を詰める。
「……っ」
ㅤまただ。息が上手くできなくて、苦しくなる。なにも言われてないのに。凪がそっと手を引くと、嵐が少し不思議そうに首を傾げた。
「凪? どうかしたか」
ㅤ名前を呼ばれると、胸の奥が甘く痺れる。それから、お腹のあたりが熱くなる。
「嵐さん」
凪はふと顔を上げ、それから嵐を見る。自身の胸に手を当てながら、凪は唇を開いた。
「最近、その……気になることが、あって」
ㅤ所在なさげに宙に浮いていた嵐の手が、そっと凪の膝に置かれる。
「嵐さんを見ると、どきどきするんです」
ㅤ節立った嵐の指が、わずかに動いた。
「嵐さんの声を聞いたり、お仕事から帰ってきた時とか。……ここが、変に熱くなって」
ㅤ凪は風香がいたところ、おなかのあたりへ手を当てる。
「俺……病気、なんでしょうか」
数秒の沈黙のあと、嵐が小さく息を吐く。
「病気じゃない」
「そう、なんですか」
「俺も同じだ」
凪は瞬きをする。
「……同じ?」
「ああ」
ㅤ凪の視線は、嵐の左手へと移る。自分と同じ指輪がある。凪はそっとそこへ手を重ねた。
ㅤ指の長さも、手の大きさも爪の形も違う。
それでも、同じだった。
そうか。嵐さんも、同じなんだ。
「おそろい、なんですね」
「そうだ」
ㅤそう言われると、なんとも言えない熱いものが、ゆるゆると胸に込み上げてくる。
「その……触ってほしいって思うのも、おそろい、ですか」
言ってから、凪は自分がなにを口にしたのかわからなくなった。
胸の奥が熱い。指輪を見た時とは違う。名前を呼ばれた時とも違う。言葉にならないなにかが胸の内側でゆっくり膨らみ、それが喉元までせり上がってくる。
隠したかったわけではない。けれど、口に出すつもりもなかった。だからこそ、零れてしまった言葉に自分でも戸惑う。
それでも、重なった手の温度を確かめるように指先へ力を込める。すると、逃げる必要なんてないと教えるみたいに、穏やかな温もりが返ってきた。
それだけのことなのに、不思議と胸がいっぱいになった。
「ああ」
短い返事が返ってくる。その声は妙に優しくて、凪の胸に染み込んで行く。
「嬉しいです」
ㅤ掠れた声が零れる。嵐は答えず、そっと凪の顎へ手を添えた。視線が合う。次の瞬間、唇へ柔らかな感触が触れた。
優しいキスだった。
ㅤ嵐が離れようとした時、凪は無意識に服の裾を掴む。
「凪」
ㅤ呼ばれても離せなかった。恥ずかしい。それでも、もう我慢したくなかった。
「……もっと」
ㅤ嵐の、切れ長の目を見つめる。
「もっと……ちゃんと、触れてほしいです」
「……そうか」
嵐の瞳が凪を見つめ返す。力が抜けるようでいて、それでもどこかに変な力が入っている。
「……無理は、してないな」
嵐の声は柔らかかった。
「はい」
そう頷いて、短く返事をする。それでも嵐は、しばらく凪の表情を見ていた。怯えていないか、無理に笑っていないか、確かめるみたいに。
やがて、頭を撫でていた手が頬へと流れる。
「ん……」
指先があたたかい。凪は思わず目を細める。撫でていた嵐の手にすり、と頬を寄せると、嵐の親指が、そっと頬の上を滑る。
「……風香、起きる」
そう言って、嵐が少しだけ口元を緩める。凪もつられて小さく笑った。
「はい」
嵐が立ち上がる。そのまま自然に差し出された手を見て、凪は少しだけ迷う。けれどすぐに、その手を取った。
指が絡んで、互いの熱が混じり合う。どうしてか泣きそうだった。
廊下の電気は落としてあって、家の中は静かだった。隣の部屋では、風香が小さく寝息を立てている。嵐の背中を見ながら歩く。嵐は書斎に向かっていた。
凪はふと、自分の左手を見る。薬指の指輪が、暗い廊下の中で小さく光っていた。
ちゃんと、触れて欲しい。
さっき口にした言葉を、頭の中で繰り返す。
嵐が部屋のドアを開ける。
その瞬間、凪はほんの少しだけ、嵐の手を握る力を強くした。
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