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二十、願わくば

 蛭子を脇に抱えて(やしろ)内の庭にある水場へと向かった。湧き水が岩の隙間から流れ小さな滝のようになっているその場所は、黒鴉(くろあ)の身を清める霊泉でもあった。 (よく考えたら、この清浄な水で穢れごとその身が消えるとかないよな?)  今更だが、"歩く呪物"である蛭子(ヒルコ)をこの霊泉で綺麗にしたら、霊泉が穢れるか蛭子が浄化されるのではないかと思い直す。でもまあやってみないとわからないし、と移動するのが面倒になったのか黒鴉は蛭子をそのまま霊泉に沈めた。 「うん、大丈夫そうだな」  元々、されるがままだった蛭子。黒鴉はその場にしゃがみ、ごしごしと自分の袖で蛭子の頬にこびりついている血痕を拭ってやる。霊泉に浸っている小さな身体は、かろうじて顔が出ている状態で、黒鴉が入るとちょうどいいのだが、やはり蛭子には深かったようだ。  やがて蛭子の周りだけ赤い色が浮かび上がる。衣や身体に染み込んでいた自身の血が洗い流されるかのように。霊泉は赤く染まる度にそれらを浄化し、透明な水へと変えていく。蛭子には危惧したようなことは起きず、今も大人しく浸っていた。 「まあ、全身丸洗いできてよかったよかった」  長い黒髪が浮かんでいる。紅玉色の瞳は虚で、全然まったくこちらのやっていることに興味がないようだ。さっきからひと言も言葉を発していない。しかし黒鴉は特に気にしない。 「屍人の身体ってなにも感じないの? 痛いとか寒いとか冷たいとかあたたかいとか」  つんつんと青白い頬を突いて訊ねるが、反応はない。完全に固まっているようだ。それは好都合と悪い顔をして、黒鴉は今度は霊泉からひょいと蛭子を掬い上げた。全身ずぶ濡れの状態は流石に可哀想と思い、神気を使ってさっさと乾かしてやると、随分と小綺麗になったように感じる。長い袖に長い裾。  立ち尽くしている蛭子を眺め、興味本位で右手を取り長い袖を捲ってみる。そこに現れたものに対して、一瞬目を細めた。頭に浮かんだ仮説を確かめるために、黒衣の裾を捲って足もとも確認してみた。そしてその結果に対して眉を顰めると、顎に手を当てて「うーん」と考え込む。 (ふーん。蛭子って名前から想像はしてたけど。やっぱりそっちの蛭子ってことか)  蛭子。遥か昔、始まりの神たちの間に生まれた子のひとり。生まれてすぐに捨てられた、奇形の子。謂れは様々だが、この手はこの足はそういうことなのだ。本人の意思なのかそれとも故意になのか、いずれにせよ隠されていたということだ。 (けど、どうしてあんな場所に? 神話時代のそれだったとしても、あんな醜悪な場所で生まれた理由は?)  黒鴉が生まれる遥か昔の話だ。水月もおそらく知らないだろう昔々の本当かどうかもわからない話。だが別に蛭子自体は悪いモノではなかったはず。それがこんな風に穢れを帯びているのは、やはりあの蛭の姿をした悪神のせいだろう。  乾いた蛭子を抱き上げて、そのまま自室の方へと向かった。丸い鏡の前に座らせて、腰より長い黒髪を梳く。無反応な蛭子はまるで魂が抜けているようだったが、やはり黒鴉は気にしない。意外と器用なその指先で、あみあみと左右両端をそれぞれ三つ編みにしていく。 「これをこうして、こう、と。可愛い可愛い」  左右の編み込んだ三つ編みを後ろでひとつにまとめて整えてやる。顔の右側を隠している前髪はそのままにしてやることにした。 「よし、完璧! どう? やっぱり俺の思った通り、磨けば光る逸材だったね」  霊泉で洗い流され元々の美しさを取り戻した髪の毛に触れながら、鏡越しに蛭子を見つめて笑みを浮かべた。その時、ようやく蛭子の表情が無から少し変化が生まれる。なにも映してなかったその瞳に光が戻ってきて、自分自身を見つめていた。 「……なにこれ。お前がやったの?」 「そうだよ? 可愛くなっただろ? 俺、こういうの得意なんだ」 「……ボクは女の子じゃないぞ」 「でも俺が思うに、どっちでもないでしょ? じゃあ似合うならそれでいいと思わない?」  怪訝そうにこちらを見上げてくるが、解く気もないようで。 「ぼけっとしてるから悪いんだぞ? 俺の好きにさせちゃうから」 「…………お前はどうかしている」 「それな〜。よく言われるやつ〜」  蛭子は呆れた様子でそれ以上はもうなにも話してはくれなかった。後は空いている部屋に押し込んで、数日しても脱走する気がないことがわかると、黒鴉は久々に社から出て領域外へと飛び立つ。一応、あの穴の件は共有しておく必要があるだろう。 (なにか訊かれたら必要最低限だけ伝えて……後はそうだな、挨拶に行こうかな)  領域から勝手に出ることはできないはず。出たとしても行く所なんてないだろうし。これからどうしようかな、と楽しげに鼻歌を歌いながら黒鴉は翼を羽ばたかせる。 「願わくば、哀しき屍人に幸いあれってね」  あの子がこれからどうしたいのか。  なにを求めるのか。  願うのか。  あの虚ろな(カラ)の心の器が、満たされることはあるのだろうか。  黒鴉は瑠璃色の鴉の姿になり、白銀に染まった山の頂を目指した。 第二章 鴉と蛭子 〜了〜

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