25 / 61
第七章:其の一:はらりと落ちるや、秋の枝
東京放送局からラヂオが流れ始めたころのお話。東京と神戸間に特急列車「燕」号が走るようになるまではもう少し前、成金が街中を闊歩していたころとあまり変わらず、それでいて、地方はまだまだかまどで飯を炊いていたころのことである。
風が冷たくなってきたな、と感じたのは縁側でぼんやりと空を眺めていたときのことだった。
秋空は遥か彼方までも遠く澄んでいて、それでいて、深い。
遠くの方にはいわし雲が見えていたが、そういえば、いわし雲が見えたら数日以内に雨が降るよ、と昔母が言っていたことを思い出した。
──そうか、雨が降るのか。
秋の長雨とはよく言ったもので、雨は土砂降りにならない割にしとどと降る。あれこそ、体の芯まで冷えるから、存外厄介な雨だな、と荻窪(おぎくぼ)はため息をついた。
先日──といっても先月の話だが、編集の高梨(たかなし)が持ってきてくれた扇風機は夏の間随分と活躍してくれた。
いまではひっそりと息を沈めて部屋の隅で眠っているが。音と送風でちびは嫌がって寄ってこなかったのは寂しいものを感じたが、涼しさには変えられない。
ちびも家の中のどこかに涼しいところがあるらしく、夏の間はあまり姿を見せることはなかった。
土間か、風呂場か。その辺りの陰にでも居たのだろう。
陽射しも落ち着いてきた頃、ちびはいつの間にかまた荻窪のそばで、すやすやと眠るようになった。それを見た荻窪もまた、気温が落ち着いてきたんだなと実感する。
身体もひと回り大きくなっただろうか。荻窪の隣で寄り添うちびの背中を、そっと撫でた。
締め切りまではまだもう少しある、そう思いはするものの正直なところなにも思いつかなかった。
高梨が残した痕跡が大きすぎて、考えが追いつかない、といったほうがしっくりくる。
思わず掴んでしまった身体の温度、梳(す)いた髪の湿度、そういったものがいまもなお、頭から離れていかなかった
ここまで翻弄されたのは、初めてではないだろうか。荻窪は膝に肘を乗せるように、頬杖を付いた。
もう、誰かに振り回されることはないと思っていた。
あの時から荻窪は、一人で生きていくことを余儀なくされていたから。
選択肢があるようでなかった、と言えば聞こえは良いが、荻窪は自ら望んで独りを選んでいた節があった。
縁側から振り返れば、衣桁(いこう)に掛かる濃紺色の着物が答えるかのように、ひらりと揺れた。
「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」
荻窪が無意識に、小さくそう唄を詠んだ。
***荻窪の怪談***
「おい、聞いたか? そこの家で昔人が殺されたらしいぞ。」
町を行き交う町民たちが気の毒そうに眉をひそめ、そう噂していた。昔、というだけあってそれ以来人が住んでいないのだろうぼろぼろの家がそこの、町民が指差した道なりにある。
実際、いま指を差して噂している町民がまだ母親の腹の中で小さい存在だったころ、それは起きていた。殺されたのは若い女。
原因は分からぬが女の遺体はそこの家で一番古い木の根元、奥深くに埋められていた。しかしそれは、ずっと昔のことだ。いまはもう、そこにはない。
当然のことながら、売りに出されたが誰も購入する人はいなく、ずっと無人であった。それで、ぼろぼろの荒れた家になってしまったのだ。それを最近購入したものがいるらしい。
噂をしていた町民と噂を聞いた町民は実は大工で、家を買った者に改築を依頼されていた。あそこは嫌だとは言えず、承諾したもののいざそれを目の前にすると、なんとも背筋がうすら寒い。
「と、とにかく、さっさと終わらしてしまおうや。」
噂を聞いていた町民はどん、と大工道具を地面に置くと、ごくりと唾を嚥下した。ぶるりと身震いをしてしまうのも、仕方がないのかも知れない。
荒れ果てた屋敷は、庭も室内もどこもかしこもぼろぼろだったのだから。ここでなにか得体の知れないものが出てきても、おかしくはないのではないだろうかと思うほどだ。
ばきばきめりめりと大きな音を立てて、二人の大工は家を解体し始める。いつになってもいいから、と言われているものの、これではさっさと終わらせてしまうのが得策かも知れぬ。
光も入らぬその屋敷に、徐々に手を加えていけばそのうち見られるようになるだろう。
そう思いながらもなぜか言葉が出てこない。なにか言葉を発せば、どこぞからなにかが出てくるのではないだろうか、という不安が頭を掠めていた。
そんなことがあるはずがない、と力任せに否定しようものならそれは、肯定しているのだ。なにか物の怪が存在していたらと、二人にはそんな不安がよぎっていた。
ともだちにシェアしよう!

