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第七章:其の二:はらりと落ちるや、秋の枝

 ***荻窪の日常***  荻窪はふと考える。  もしも、自分に声が聞こえていたなら、何かが変わるのだろうか、と。  何の声かは言及しないが、その視線は写真のない写真立てに注がれていた。  幾度となく想い出を心の奥底にしまい込んでも、不意をついて飛び出してくるそれは、心の棘に他ならない。  自戒を込めていつも見えるところに、濃紺色の着物を掛けているのに。  つい、高梨に心を揺さぶられてしまう。  あの、明朗な笑顔とさり気ない配慮、それから直球に踏み込んでくる心の球が荻窪には痛かった。  文机に向かい万年筆を手の中で転がす。  ぼんやりと考えている視界の隅に、写真がないはずの写真立てに、一瞬写真があるように見えて、心が跳ねた。 「んにっ!」  玄関を見て、ちびが鳴く。  がらがらと音を立てて、高梨だろう人が入ってきた。 「先生、高梨です。ご在宅ですよね?」  ぎしぎしと音を立てて、古木の廊下を歩いてくる。まだ昼過ぎなのに珍しいな、と荻窪は雪見障子の方を見つめた。 「ああ、高梨くん。今日は早いね。」  低い声が高梨を出迎える。いつものように、何事もなかったふりをして、雪見障子がすぅ、と開いたそこへ薄い笑みを向けた。 「幼馴染からたくさんさつまいもをもらったんですが、美味しかったので先生にもお裾分けをと思いまして。」  両手にたくさんのさつまいもが入った風呂敷を、持ち上げてみせた。  高梨はそれを一度床に置き、風呂敷を開ける。新聞紙に包まれたさつまいもが次から次へと出てきて、さすがの荻窪も茫然とした。 「幼馴染とは、例のさっちゃんかい? 仲良くしているようで良かったよ。──しかし、たくさんあるな……。」  例のさっちゃん、とは一度高梨の話題に出てきた幼馴染のことだ。  高梨も荻窪に「さっちゃん」という名前を出された瞬間に、手が止まる。 「何度も言ってますが、僕とさっちゃんはそんなんじゃありませんよ。」  俯いたまま、高梨はやや不機嫌そうに否定した。  声にももちろん棘がある。ちびはそんな雰囲気を嗅ぎ取ったのか、高梨の手に頭突きをして甘えた。 「ああ、ちび。こんにちは、今日も可愛いね。」  高梨がちびの頭を撫でつける。ごろごろと喉を鳴らし、高梨の手にすりすりと顔を擦り付けた。  すっかり仲良くなった二人の、恒例の儀式だ。 「先生、お庭に枯れ葉が落ちていますし、僕が片付けておくので、あとで焼き芋を作りませんか?」  ちびを抱き上げて、腕に乗せる。 「あ、ああ。美味しいとおすすめされているなら、是非ご相伴(しょうばん)させてもらおうかな。」 「さっちゃん」が高梨へとくれたさつまいも。  ただ、それだけのことなのに、荻窪はずしんと心が重くなった。  ***荻窪の怪談*** 「なかなか綺麗な家ではないか。ここ数年無人だったとは勿体無いことだな。」  その巷で噂の「物の怪屋敷」に新しく引っ越してきた住人である男が、綺麗に改築されたその家を下から上まで感心したように見上げた。  庭には手を入れずに元のまま。あまりにも見事なその風情に、少し手直しすればまだまだ見られる、と言ったとか言わないとかで。いや、それ以前に、「物の怪」はもっぱら庭に出るというから、職人たちが手をつけなかっただけかもしれぬ。  男は一回り屋敷の中や庭を歩いて見渡すと、明日にでも引っ越してこようじゃないか、と嬉しそうに笑った。ここ数年無人のまま放置されていたその家は、見違えるほど変わっていた。  これがあの「物の怪屋敷」なのかと、目を疑ってしまうほどである。ここまで綺麗にされては物の怪も出たくもなくなるだろうに。誰しもが声をそろえた。  男が引っ越してきて早数日が経った。いつものように玄関前に水を撒きいつものようにご近所さんに挨拶をしていた。庭には幾多の植木が植えられ、もともとあった木から新しく足した木まで丁寧に水をやる。  それこそ、一本一本に話しかけているのではないだろうか、と思うほどである。  そんな中、男がひときわ気に掛けた木があった。春に芽吹き夏に小さくて白い花を咲かせ、秋になると小さな黄色の実を結ぶ「からたちの木」である。当時からこの木はずっとここに現存していた。  それこそ、古木である。樹齢何年か何十年か。年季の入った幹や枝振りを見ていると──実に見事で。男はそれを気に入っていた。  その木にまつわる恐ろしい話も知らずに。かの有名な「物の怪」の話の中心が、この「からたちの木」だったのである。  そんな夜のことだ。時は子の刻から丑の刻の半ば(夜十二時から二時)、男は寝ずに挿絵の仕事をしていた。彼は絵師なのである。和紙にするすると美人画を描いては、眺め透かして絵の出来具合を見ていた。  時節はちょうど夏真っ盛り。夜の闇にも白々としたからたちの花が冴え見えている。そのすぐの下。うすらぼやりと花よりもずっと大きな淡く白いものが揺れたような気がした。目の端に欠片に見えるその白々としたものを男は目に留めた。 「かようなところに白いものなぞあったのだろうか」と、小さく独り言を漏らすと、庭とその部屋を仕切っていた障子戸を勢いよく開け放った。  ──そこには。  男が考えているような盗人がいるわけでもなく。ただ、すう、と闇夜に吸い込まれるように消えていった。 「……いまのは、何ぞ……。」  誰に問いかけるでもなく、男は今しがた己の見たそれを夢のように見ていた。それからというもの、子の刻から丑の刻の半ばには必ずそれが出るようになった。楽しみに、というわけでもないがだんだんと形がはっきりしていくような気がして、男は目を離せない。  取り憑かれるような思いで男は毎日それを待った。当然、そのことに夢中になりすぎて、毎朝の日課だった水遣りすら怠って。なのに。「からたちの木」だけは水を得ているかのように凛々としていた。  明日こそは姿を見られるかも知れぬ。毎夜淡い期待を抱いては、玉砕するのだ。

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