27 / 61
第七章:其の三:はらりと落ちるや、秋の枝
***荻窪の日常***
万年筆を一度休ませるために文机の上に置くと、背広のままの高梨が庭を箒(ほうき)で掃いていた。一箇所に落ち葉を集めるように、丁寧に。
そんなことなどあまりしていないのではないか、という心配は杞憂か。荻窪はしばしの休憩がてらそんな高梨を、出窓から静かに眺めていた。
ふと見ればちびは縁側におり、硝子戸から右へ行ったり左へ行ったり、高梨の箒の動きを追いかけていた。
時折、そんなちびを見ては柔らかく笑う。
そんな姿を荻窪はただ、自分とはどこか違う世界に見えていた。
ちびを見て笑う高梨が、荻窪の視線に気がついたのかふと、書斎の窓へと目を向ける。絵顔を作りかけて、失敗したかのように眉を八の字に歪めた。
荻窪もそんな高梨から思わず目を逸らしてしまう。
万年筆を手に取って、何度も何度も無意識に手の中で転がした。
「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」
もう一度、唄を口ずさむ。
そうして、ままならない自分自身への苛立ちにどうすることもできず、文机に突っ伏した。
***荻窪の怪談***
その白い靄(もや)は必ず子の刻から丑の刻には現れるようになった。しかもだんだんはっきりと現れるようになっていく。
最初は白くたなびくような靄だったそれが、徐々に。女性の姿へと変貌を遂げるのだ。そうして。変貌を遂げた後は男の声すら姿すら目には入らないのか、女は聞こえぬ声で必死になにかを訴える。だが、男にはそれがまるっきり聞こえることはなかった。
意志の疎通ができぬということが、こんなにも不便だとは感じたことがない。
「頼む、お願いだ。声を、──声を聞かせておくれ……。」
くず折れるように、男は廊下へと身を屈ませると頭を押さえた。女がなんと言っているのか、知りたくてしかたがない。しかし、声は聞こえない。
必死の形相は、女がなにかを訴えているようにしか思えないのだ。しかしその訴えはまるで見当も付かず、男にはただ、子の刻から丑の刻にかけてからたちの木の下に出てくる、それしか分からなかった。
男は次第にどうやったらあの声が聞こえるのか、と考えるようになる。頭の中はそれ以外のことが思いつかず、徐々に家はぼろぼろに荒れ果てていった。
男はまるでなにかに取り憑かれたように、毎日をからたちの木の下で過ごした。木を見上げ「後生だ、声を聞かせておくれ……」と枯れた声を絞り出す。
その姿は近隣の住民たちにも知れ渡ることとなり、やはりあの家は呪われているという印象を決定付けた。
──時は春、からたちの木はまだ若く、青々とした芽を吹いていた。その木の根元には甲斐甲斐しく世話をしている、一人の女性。健康そうな薄紅い頬は、まだ女性が若いということを知らせているようだった。
「ねぇあなた、もう少しでこの芽も花を付けるのですね。」
軽やかな声が、庭を一望できる茶の間へと掛けられる。そこには、女性よりも一回りは年上だろうか貫禄たっぷりの男が、からたちの木の下にいる女性を見て頷いた。
口ひげを生やしたその男は、キセルの音をとんとんと立てると、「もういいから、入ってきなさい」どっしりと重い深みのある声を漏らした。
「ええ、楽しみですわ。」
そのとき、女性はなにも知らなかった。男が、女性に抱く殺意を……。
ともだちにシェアしよう!

