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第十一章:其の二:蒼く染まりゆく、かの道小道

 ***荻窪の日常***  夢を見ていた。  初めて雄二郎が声をかけてきたときの夢だ。  彼はいつも睨みあげるような目で自分を睨んできていたな、と思い出す。  けして、微睡(まどろ)みの中で甘える素振りを見せるような男では、なかった。  腕の中の温もりに、引き寄せられるように視線をやれば、すぅすぅと眠る高梨がいた。  まるで安心しきった子供のようだな、と思ってから、それでは高梨に失礼だな、と思い直す。  少なくとも彼は成人した男性だ。子供のようだなんて、思うべきではなかった。  雨の音が続いていた。  屋根を叩く雨の音、庭に落ちる雨の音。  風はなく、ただ静かに、真っ直ぐに雨が落ちていた。  腕の中でもそりと、高梨が小さく動く。  荻窪が起きた気配を察しているのか、それとも夢を見ているのか。  すぅ、と伸ばされた手が荻窪の首へと回されて、より一層身体の密着が強まった。  ──無意識でこれとは……。  無理に身体を離すと起きてしまうかもしれないという思いと、離したくないと思う温もりの間で、どうしたものかと考え込んだ。  耳を澄ませば雨の音。  二人の鼓動の音と、時々響く家の軋み。  高梨の布団を占領してど真ん中で丸くなって眠るちびの寝息。  ただ、薄蒼(うすあお)の静寂(しじま)の中、荻窪はひっそりと目を閉じた。  腕を回された首が、やけに熱い。  そこに心臓が移動したかのように、強く脈打っている。……落ち着けない。  男の足はこんなに滑らかな脚(あし)だっただろうか、などと余計なことまで考えてしまう。  荻窪は自身の頬が熱くなり、鼓動が早くなるのを感じた。  意識しないようにすればするほど、絡まされた足や寝息が余計に際立っていく。  いままで、男相手にそんなふうに思ったことなんて、なかったのに。 「先生……、僕を……拒絶しないでください……、」  微睡(まどろ)みの中で呟かれた言葉は、寝言だと分かっていた。  だがそれは、彼が決して言葉にしなかった、心の深淵に潜む恐怖そのものだった。  ***荻窪の過去──親友の話***  あの件以来、雄二郎は荻窪に付き纏っていた。どんなに邪険にされようとも、それこそ、飼い主に懐(なつ)く子犬のように。  荻窪も、これ以上邪険にするのも、毒気を抜かれたようで馬鹿馬鹿しくなってきた。  仕方なしに雄二郎の声に答えれば、想像を遥(はる)かに超えた破顔(はがん)が待っていた。  子犬のようだ、と思ったのはあながち間違いではなかったようだ。 「あんた、七門(ななかど)といったか?」  渋々声を掛ければ、瞳を輝かせ荻窪を見つめるその姿は、まさしく捨て置けぬ仔犬だった。名前を呼ばれたくらいで嬉々とした笑みを浮かべる彼を見ていると、日頃の口調の悪さなど気にならなくなってくる。 「雄二郎だ、雄二郎と呼んでくれ。俺はお前を康路と呼びたいからな。」  無理やり腕を伸ばして、肩を組んできた。それこそ身長差があるから、無理しなくてもいいのに……。力任せに組んでくるものだから、正直に言えば、痛いのだ。ごつごつした腕の感触が首を締めてくる上、背丈の問題で無理な態勢を取らされてしまう。 「俺は特にあんたを下の名で呼ぶ義理はないと思うが。」  学帽を被り直した荻窪が、眉根を寄せて雄二郎を見下ろせば、そこには無いはずのしょぼんとした犬の尻尾が見えた気がした。  喜怒哀楽の激しいやつだ、雄二郎への印象はそんなふうに変わっていく。特に人と群れることを好まなかった荻窪が、雄二郎の愛嬌に負けて共に時間を過ごしていくようになった。  こと、何かにつけて肩を組んでくる雄二郎には少々困りものだと思ったが。  腕を回された肩は思いの外痛かったし、ごつごつしていた。子犬というよりも大型犬というべきか。  無理やり引き寄せられたせいで少し首の根に痛みが残る。  荻窪の中で、雄二郎はそんな風に変化していった。喧嘩腰の小型犬から、喜怒哀楽が激しい大型犬へ。そしていつしか唯一無二の親友へと。  後に、ここから二人は仲良くなっていくのだが、この時の荻窪はなにも知らなかった。

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