44 / 61
第十一章:其の四:蒼く染まりゆく、かの道小道
***荻窪の過去──親友の話***
「香世、お前、店の手伝いはいいのか?」
そう雄二郎に声をかけられた香世は、ぽてっとした唇をむっと突き出し「おだまりよ」と反論した。
小さな頃から一緒に育ってきた二人は、同じ年の兄妹のように見える。
「あんたがさ、荻窪さんと仲良くなったって聞いたから、確かめに来たんじゃないか。」
確かに、初対面のあれを見ていた香世が疑うのも無理はない。
ほぼ喧嘩腰に話しかけた雄二郎と、それに反発する荻窪をまざまざと覚えている。
「嘘じゃないって。康路は俺と友達になったんだよ。お前が心配するほどのことでもねえだろう。」
こつり、軽く頭にげんこつを落とされた。
心配してるわけじゃないけどさ、と口の中で言い訳するも、もし、荻窪のような大男が雄二郎に向かって本気でかかって行ったなら、雄二郎が勝てるはずもない。
噂に聞く限りだと、荻窪という男は、寡黙で騒がしいのが好きではなく、よく本を読んでいるような、そんな男だということだ。
「お前も、康路が気になるのか?」
高下駄をかつんと鳴らした雄二郎が、香世をのぞき込んだ。
そういうことじゃないだろ、と否定したくなったが雄二郎と荻窪がどんなふうに会話をしているのか興味はあった。
あの荻窪が、あのきゃんきゃんうるさい雄二郎と話すなんて、どんな風の吹き回しだろう、そう思えてならない。だから、荻窪と会う約束があると聞いて付いてきた香世は、いつ荻窪が姿を見せるのか、期待していた。その時、香世の背後が急に暗く影を落とした。何事かと驚くのとほぼ同時に、低い声が聞こえてくる。
「なんだ、定食屋の娘も居たのか。雄二郎、こんなところに呼び出してなんの用だ。」
急に背後から現れた荻窪の圧は、香世にとって驚きでしかなかった。
びくりと肩を震わせて、ものすごい速さで振り返る。大きな壁が一枚立っているかのような威圧感。
「定食屋の娘、じゃなくて、私の名前は香世っていうんだ、覚えておくれよ。」
小さな頃から母の手伝いをしているせいか、口調も母のそれに似てしまう。
強く言い返したはいいけれど、怒鳴られたらどうしよう、という恐怖はあった。
「そうか、香世さんか。すまなかったな。」
静かな声で香世に話しかける荻窪は、噂通り穏やかだ。薄く笑うその仕草は、雄二郎にはもったいないとさえ思う。本当に同じ歳なのだろうかと疑うほど、落ち着いている。
切れ長の黒い瞳だけがやたらと鋭さを感じるものの、殴り合いの喧嘩になるような人ではないと、香世は察した。
「香世って呼び捨てでいいだろ、さん付けなんてもったいないぞ。」
「雄二郎、あんた、それは香世さんに失礼だろう。」
たしなめる声。
それに反発するかのように、荻窪の肩に無理やり手を回す雄二郎の、いたずらっ子のような笑み。
面倒臭そうになにも言わず、肩の高さを合わせるように身体をかがめ、荻窪はやれやれというように首を振った。
対等な友人同士、というよりは──どこか雄二郎のほうが嬉しそうにも見える二人を見ながら、香世は心の中で荻窪に感謝する。
雄二郎は豪胆で言葉も悪いけど、心根は悪いやつじゃないんだ、と。
***荻窪の日常***
雨の音が遠くに響く。
真夜中よりも雨足は軽くなってきただろうか。
うとうとしながら、高梨の様子に心を惹かれ、何度も夢と現実を往復している。
高梨の、柑橘系の香りが鼻孔をくすぐり、触れ合う素肌をより意識させた。柔らかな髪の毛が頬に当たり、首に回された腕はずり落ちて、いまは荻窪の背中に回っている。
時折、ぴくりと小さく動く。
夢を見ているのだろうか。
こんなにも無防備に眠ることができるなんて、と思う。じわりじわりと心を侵食していくような温かい気持ちが、恋情なのだろう。
荻窪は静かに寝息を立てる高梨をそぅっと優しく抱きしめると、深く息をついた。
気がついてしまったからだ。
高梨への想いは、今更ながら、性的なものを含んでいるということに。
雨がしっとりと降り続く。
さぁあああ──、と静かな音を立てて、降り注ぐ。
薄っすらと薄蒼から橙へ、色合いが移りゆく。
朝方の冷えた空気に身を寄せるように、荻窪が高梨を抱き寄せた。
高梨の寝間着の袷(あわせ)がずれ、白皙(はくせき)の肩が露わになる。
荻窪はそこへ吸い寄せられるように、そっと唇を寄せた。
それは、静かな雨音に溶けていくような、慈しみの口づけであった。
──蒼く染まりゆく、かの道小道。
ともだちにシェアしよう!

