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第十ニ章:其の二:青葉に触れて、口結ぶ

 ***荻窪の日常*** 「先生、高梨です、ご在宅ですよね?」  いつものように玄関を勢いよく開けて、高梨が顔を出した。荻窪はちょうど万年筆を置いたところで、その声に気が付く。ああ、と返事しようとしたら真っ先にちびが小さな足音を立てて、高梨を迎えに行ったようだ。  ちびはすっかり高梨に懐(なつ)いたなと荻窪は苦笑する。最初の頃の、ちびが甘えてごろごろ喉を鳴らしている音を聞いて、「怒ってる、この猫、怒ってますよ」と慌てていたとは思えない。 「ああ、書斎にいるよ。」  ちびを見送ってから、荻窪はゆっくりと返事をした。  みしみしと廊下を歩く音と、ちびがまとわりつく軽い足音が交互に響く。今日は雪見障子も開け放っていたから、高梨はそのまま姿を現した。  いつものように背広をきっちりと着こんで、少し暑いのか頬を紅潮させている。 「先生、こんにちは。上着を脱がせてもらってもいいですか?」  そう言いながらすでに背広の上着から腕を抜き、衣紋掛(えもんか)けにかける。長押(なげし)にひっかけて、少しは涼しくなったのか、高梨は大きく息を付いた。 「そうだ、先生。今日、さっちゃんから青梅をたくさんいただいたんですよ。」  ほら、と荻窪の目の前に大きな風呂敷をぶら下げる。 「青梅か。懐かしいな。」  昔、荻窪の母が存命だったころ、よく梅酒や梅の蜜を作っていたものだ。幼少時のことを思い出して、ふと笑みがこぼれた。 「一緒に作りませんか? あ、原稿が優先ですけど!」  そう言って高梨が、荻窪の手元にある原稿を覗き込んだ。荻窪の肩口から覗き込む形になって、いやがおうにも高梨の匂いが、荻窪の鼻腔をくすぐった。あの時の夜の出来事が一気に脳裏に蘇る。 「僕、作りますから、先生は原稿を書いてくださいね。」  びし、と指を差されては敵わない。やれやれ、と思いつつも、こればかりは仕方ない。高梨が昼間にこうして荻窪の家に訪れる、ということは締め切りが近い証拠なのだ。 「しかし……、高梨くん、きみ、作り方を知ってるのかい?」  荻窪はいつも母の手仕事を見ていたから、なんとなく記憶にある程度だが、最初のあの渋いお茶を淹れるくらいの家事の不出来さを思えば、疑問に感じるもの無理はない。 「あ。──そこはさっちゃんから教わりました。」  気まずそうな笑みを浮かべた高梨は、両手に抱えるほどの青梅が入った風呂敷を持ち上げると、「お台所をお借りしますね」とそそくさと書斎を後にした。 「さっちゃん──ああ、あの幸代さん、ね。」  急いで台所に向かう高梨の後ろ姿を見送りながら、荻窪は低く、小さくつぶやいた。  そんな荻窪をちらりと見やる玻璃(はり)のように青く透き通った瞳は、高梨の後を追おうか、それとも主の傍に留まるか、少々迷いを見せた後、青梅の存在が気になったのか、駆け足で高梨の後を追いかけて行った。 「薄情なちびめ。」  喉の奥でくつくつと笑いながら、荻窪は万年筆を手に取ると、仕方なしとでもいうかのように、原稿用紙と向き合った。  ***荻窪の怪談*** 「な、なんなんだ、あんた、いや、人か? なんなんだ?!」  男は戸惑いながらも、迫ってくる闇に声を投げる。答えを期待していたわけではない。むしろここで答えが返ってきていたら、それこそ恐怖に呑まれて動けなくなっているだろう。怪我をした膝を気にする余裕すらなく、這うように逃げる。  足音はしなかった。  しかし、ねっとりとした闇の形をしたなにかが、明らかに男を包もうと手を伸ばしている、ただそれだけは気配で察知した。 「やめてくれ、頼む!」  言葉が通じる相手なのかも分からないまま、男は懇願する。 「家には幼子が待っているんだ! 妻に先立たれてから二人で暮らしているんだ!」  とにかく男は必死に懇願した。いま自分が居なくなってしまえば、家で待つ幼子が独り残されてしまう。そうなったらあの子はどうやって生きていけばいいのか。  一人で父を待つ、幼子の顔が脳裏に浮かんで、涙があふれそうになった。 「頼むから、俺を食わないでくれ!」  逃げることを止めた男が、両手を合わせて祈りの姿をして懇願した。 「ぺたりぺたり」  闇が止まり、足音が響いた。それは近づきすぎた距離を取るように、離れるかのようにゆっくりと下がっていく。  助かったのか?  男はそう思ってゆっくり立ち上がってから、辺りを見回した。相も変わらずいつもよりも濃い闇に包まれた山は先と変わらない。  痛む足を引きずって、一歩を踏み出す。 「ぺたり」  足跡も後を追うかのように、一歩進む。  助かったわけではなさそうだ。だが、襲うつもりもいまはなさそうな足跡に疑問を残しながらも、男は幼子が待つ家路を急ぐしかなかった。

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