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第十ニ章:其の三:青葉に触れて、口結ぶ

 ***荻窪の日常***  耳を澄ませば、台所からはちびと高梨の攻防戦の声が聞こえてきていた。  青梅は丸いから、ちびにとってはかっこうの獲物になるのか、と荻窪は重い腰をあげると、台所へと足を向ける。一人ではちびと青梅との攻防戦には勝てないだろうから、少し手助けしてやろう、という気持ちと息抜きのためだ。  荻窪はひたひたと廊下を歩くと、その攻防戦の声は徐々に大きくなっていく。 「ちび、青梅はだめだよ、手を出さないでね。」  高梨が水で青梅を洗いながら、ちびに言い聞かせているようだ。丸くて転がりやすい青梅はおもちゃになり得るだろうが、猫は食べることがなかった気がするな、と荻窪は首を傾げながら居間を抜けて、台所へ繋がる障子を開けた。  高梨が慌てるのも無理はない。ちびが匂いを嗅ぎたくて、水で青梅を洗っている、すぐそばまで顔を突きだしているのが見えた。  ああ、ちびは食べはしないだろうが、高梨から見れば心配のひとつか、と納得する。 「高梨くん、私もなにかできることがあれば手伝おう。──それとも、「さっちゃん」が教えてくれたことは一人でやりたいかな?」  わざと、そんな言い方をしながら、ちびのしなやかな身体を抱き上げて、床へと下ろす。  少し意地悪だっただろうかと思いながらも、手にした青梅はとても瑞々しく、いつかのさつまいもを思い起こさせた。  高梨のためにいいものを選んで、贈ってくれたに違いない。それを高梨は気が付いているのかいないのか。近すぎて気が付かないこともあるからだ。 「先生、さっちゃんはただの幼馴染で……。」  高梨は困り切ったように、小さな声で反論する。いつぞや、婚約者殿か、と問われたことがいまだに心に残っているのだろう。 「知っているよ。幼馴染で一番仲の良い異性なんだろう?」  そう言ってから荻窪は自身の心にあるこの想いが、嫉妬であることに気が付いた。  言わなければよかった、とは思うものの後の祭りだ。 「先生、もしかしてさっちゃんに嫉妬してますか?」  覗き込んできた高梨の表情は生き生きとしていた。ああ、こんな姿を見せるんじゃなかったと顔を背けてみるが、高梨はそれを許さない。  肯定の返事を聞くまでは、という意志さえ隠さずに、荻窪を見つめた。 「してはいないよ。」  顔を隠して、高梨から逃げるように背を向ける。いい年をして嫉妬だなんて恥ずかしい、荻窪は必死に隠そうとした。 「それじゃ、先生、なんであんなことを言ったんです?」  回り込んできた高梨が、担当編集者という仮面を脱ぎ捨てて、真っ直ぐに荻窪の視界に飛び込んでくる。  白いシャツを一枚着ている姿、暑くて頬が紅潮している顔、荻窪の反応が楽しくて輝いた瞳、それらすべてが荻窪にはまぶしくて仕方がなかった。  しかし、荻窪にはまだ彼を捕らえる勇気はない。  ──ああ、どうしたらいいのだろう。  視界を遮るために、荻窪は瞳を瞑った。その時。  軽く唇に触れる柔らかいもの──。  高梨の唇がそっと触れていた。  数舜触れたと思ったら、すぐに離れていく淡いそれ。 「僕には先生だけです。」  真っ直ぐに見つめられた荻窪は、誘われるままに今度は自分から高梨のそれに唇を重ねていた。  ​甘やかな唇を、もう一度味わいたい。無意識にそう願ったのと同時に、今度は荻窪の方から、高梨の言葉を奪うように深く唇を重ねた。  無意識に欲望に身を任せ、荻窪は自身でも気が付かないうちに、高梨のその唇を追い求めていた。  ​触れるだけの接吻では物足りない──。  するりと舌を差し込んで、欲望のままに高梨の口中(こうちゅう)を蹂躙(じゅうりん)しようとした瞬間、高梨の手が縋るように荻窪の腕を掴んだ。 「──先生、これ以上はだめですよ。」  は、と息を切らせたように、高梨は頬を紅潮させて小さく呻いた。  恥ずかしそうにうつむいて、そっぽを向く。  赤く色づいた頬が更に荻窪の欲情を煽ることなど、知らないのだろう。  既(すんで)のところで留まった荻窪は、煽情的にも見える高梨をしばし見つめたあと、す、と掴まれた手を離した。  あの夜から幾度か交わした口づけの中でも、今日は特別深くなってしまった。  荻窪は止められた瞬間に、自身がどれほど深く高梨を欲しているのか、否応なしに突きつけられた気がして、荻窪はいたたまれない気持ちになる。 「わ、私は書斎に戻るよ。……あ、夕飯は手間でないなら、香世さんに頼んでくれないか?」  ろくに顔も見ることもできず、逃げるように書斎へと姿を消した。  ***荻窪の怪談***  家につくまで、足音はずっと追いかけてきていた。  近づくことも、遠ざかることもなく、一定の距離を保ちながら「ぺたり、ぺたり」と着いてくるその薄気味悪さ。  何度振り返っても闇しか見えず、しかし、その闇はいつもの闇とはまるで違う。  闇そのものが足音の正体なのではないか、そう思い至った頃、男は家の扉を開けた。 「とうちゃ、おかぁり!」  まだやっと言葉を話せるようになった愛しい幼子が、薄っぺらい布団に包まって暖を取りながら帰りを待っていてくれた。 「ただいま。」  急いで草履を脱ぎ捨て、男は幼子を抱きしめる。  家まで着いてこられたのだ、もしかしたら幼子共に食らわれるかもしれない──そんな恐怖から子供を腕から開放することなどできようものか。  開け放たれた扉の向こうでは、闇が蠢(うごめ)いていた。しかし、家の中には入ってくる気配はなかった。 『嘘だったなら、喰ろうてやったに……。』  小さくそうつぶやかれた声は、すぅ、と闇とともに消え去った。  人間とも獣とも捉えることのできない、そんな声だった。

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