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第十ニ章:其の四:青葉に触れて、口結ぶ
***荻窪の日常***
荻窪は息をつくと、万年筆を置いた。
まだ唇には先程の余韻が残っている。小さな寝息が聞こえてきて、背後を振り返れば、ちびがいつものようにいつもの座布団で丸くなって眠っていた。
どうやら、青梅には飽きてしまったようだ。
周りを見渡してから、ちびの好きな手作り──これも高梨お手製だ──の遊び紐を見つけて手に取った。先端に鈴が括り付けられているから、少し動かせば鈴がなり、それに興味を惹かれるという寸法だった。
軽やかな鈴の音を鳴らして、荻窪がそれを振り回す。うとうと瞳を開けたちびの瞳孔が一気に丸みを帯びて獲物を狙う猫に早変わりした。
その様変わりは、いつ見ても面白い。
荻窪はちびが好きな動きを繰り返し、遊びを誘う。小さな手を広げて鈴を追いかけてくるちびを見ながら、喉をくつくつ震わせて笑う荻窪は、高梨のことなど忘れているかのようだった。
「ちびや、お前もすばしこくなったな。」
鈴を上に飛ばしたり、畳を這わせたり、多種多様な動きをして遊ばせる。
ちびはそのたびに、飛び跳ねてみたり、獲物を狙ってお尻を振ってみたりと忙しそうだ。
そんなちびの動きに荻窪は心が癒やされるような、そんな気持ちになる。
先程の、高梨に制されたことに傷ついているわけではないが、自身の抑制がどれほど脆いのか、身を持って知ってしまった。
このままでは高梨を傷つけてしまうかもしれない。
荻窪は自身の抑制をもっと強めなければ、と気を引き締めた。
「おっと、ちびに取られたな。」
むん、とおもちゃを咥えて得意げなちびは、そのまま居間へと走っていってしまう。
「待ちなさい、ちびや。」
荻窪はまたしても重い腰を上げて、ちびを追いかけた。
少し急ぎ目に歩いたから、古い廊下はぎしぎしときしむ音を立てる。ちびのおもちゃを咥えて走り去るちゃりちゃりという軽快な音は、居間まで届いた。
「ちび、おもちゃを離しなさい。」
居間に入っていったちびを追いかけた荻窪が、室内に入ればそこにいたのは、とっくに帰ったと思っていた高梨だ。
しょぼんと座る高梨の膝に、おもちゃを置くちびはまるで「ねぇ、これあげるから元気出して」とでも言いたげだった。
先程、逃げるように書斎へと向かったのがいけなかったのか。
荻窪は高梨の消沈した様子を見て、ため息をついた。
「先生、あの、香世さんにはお弁当お願いしました……。」
仕事だけはきっちりとこなす。それが高梨だ。手紙に残して帰ってもいいのに、それすらもしない。
「二人分とちびの分を頼んでくれたかい?」
静かな問いに驚いた高梨が、勢い良く顔を上げた。
「ず、図々しいとは思ったのですが……、僕ももう少し先生といたかったので二人分とちびの分です。」
恥ずかしそうに、でも、気まずそうにまたうつむいてしまった。
「ありがとう。私もね、まだきみが帰ってなくて安堵しているんだ。」
荻窪が高梨の傍にしゃがみ込む。
そして、高梨の首元に手を当てると、口づけの代わりに額をくっつけた。
「原稿は書き上げた。だけど、今日は一緒に居てくれるかい?」
これは、荻窪の切実な願いだ。
帰らないでほしい、傍にいてほしい。
高梨はこれ以上ないほど嬉しそうに破顔(はがん)すると、荻窪に抱きついた。
「僕も、一緒にいたいです、先生。」
ちびだけが、そんな二人をいつもの温度で見つめていた。
──青葉に触れて、口結ぶ。
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