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第十三章:其の一:陽炎揺れて、息つまる

 遠くの方で金魚売りの声がする。カンカン帽を被った粋な男が紺の浴衣を着て忙しそうに歩いていたり、涼し気な浴衣を身に着けた女性が束髪(そくはつ)姿で闊歩するその傍らで、氷屋のラムネがからからと冷えた音を立てていた──。  じわりと立ち上る陽炎が、幻のように景色を反転させる。なにもせずとも吹き出る汗に荻窪は、首に掛けていた手拭いで首筋を拭った。  原稿に手を置けば、汗で湿り気を帯びる。文字をひとつ書くごとに原稿用紙が吸い付いてくる感覚が、とてつもなく鬱陶しかった。  ちびはいつもの如くどこか涼しい場所に隠れているし、どうせなら、自分にもその場所を教えてくれたらいいのに。そう思ってから、体格の違いでさすがに無理があるか、と思い直した。  じわりと滲む汗にやや苛立ちを感じながらも、荻窪は手拭いを手の下に敷いて、少しでも汗を緩和する。  できたよ、と差し出した原稿が汗でよれよれ……なんて恥ずかしい真似はできやしない。  外では狂ったように鳴く蝉の声が延々と続いていた。七年も土の中にいて、数日の命とは儚きかな、とは思いはするものの、鳴き声には辟易してしまう。  いっそのこと耳を塞ぐことができたなら、と思い至り、そういえば、とのっそりと立ち上がった。  ──どこかに確か、綿があったはずだ。  居間に向かいながら記憶を辿る。薬箱に入れていただろうか、それとも両親の部屋の裁縫箱か……。  がさがさと蝉の鳴き声を背負ったまま、荻窪は幽霊のように探し回った。  やっと見つけたそれは、両親の部屋の裁縫箱の中だった。いつぞや、母が使っていた真綿だろう。  これを耳に入れても良いものだろうか……、少し躊躇してしまうが、あまりのうるささに躊躇いはほんの僅かだった。  えいや、と覚悟を決めて耳の中に押し込めば、少しはましか。  ほんの少し遠くに聞こえるような、気がしないでもない。だが、気の持ちよう……とも言える。  ほんの一瞬、外界の音が遮断された。  自身の血流の音がよく聞こえるようになった分、少しは遮られているのだろうか。  眉間に皺を寄せながら書斎に戻った荻窪は、先ほどと変わりなく、手首の下に手拭いを敷いて原稿に向かった。  ***荻窪の怪談***  遠くに海岸が見えた。  白い泡を立てて波を押し、引いては返しまた寄せる。  遠目に見えるのは、日本海か。荒れ狂う海はいつものことで、綺麗な海、泳げる海とはまるで印象が違った。  うねる波、寄せる波、白い泡はまるで獲物を飲み込む牙のようにも見え、見る者を怯えさせる。  それと同時に抗えぬものへの信仰も生まれた。  海には女神が棲むという。  だから、女が船に乗ると嫉妬して沈没させるという、恐ろしい逸話があった。  漁師はみなそれを信じ、女を船には載せないようにしている。  禁を犯した船はそのまま海に沈んでいった。  女神の嫉妬に船が飲み込まれていく。  海は恐ろしい──。  荒波は女神の手のようで、その手で踊らされるのは漁師の船だ。  そんな漁師の中に、仲睦まじい夫婦がいた。  一時も離れたくない、ときつく抱き合うその姿は美しい。  しかし、漁に出るときはどうにもならない歯がゆさが、二人を引き離していた。  他の漁師たちはそんな二人をいつか禁忌を犯すのではないかと、空恐ろしく見守っていた、そんなある日のことだった──。  その船の出港がいつもよりも遅れていた日のことだ。  他の漁師の船はすでに出港し、港にはその夫婦の船だけが残されていた。

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