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第十三章:其の二:陽炎揺れて、息つまる
***荻窪の日常***
「先生! 何度呼んでも返事がないと思ったら!」
耳から真綿を抜かれて、大きな声で先生と呼ばれた荻窪は、突如蝉の鳴き声と大きな声で、ここが何処だったのか分からなくなる。
は、と辺りを見渡せば、高梨が白い詰め襟シャツ一枚で立っていた。
「高梨くん、いつからそこにいたんだい?」
荻窪は辺りを見渡した。昼間だったはずの光はすっかり夕暮れの橙になり、書斎にも影が長く伸びている。
「さっきですよ。外回りのついでに上がらせてもらったんで立ち寄りました。──ねぇ、ちび。」
どうやらちびは、高梨の来訪に気がついて、出迎えに行ったらしい。どんなに呼んでも返事がないからここまで上がってきたんだと、高梨は少し怒気を孕ませた声で説明してくれた。
高梨の足元ではどこから出てきたのか、ちびが大歓迎しながら背中を丸めてすり寄っている。
一体どこにいたのだろう、家の中に居たのは間違いないだろうが、皆目検討がつかなかった。
「蝉の声が煩くてね。すまなかった。」
真綿を耳に詰めていたせいで、より一層自身の世界に入り込んでいたようだ。
荻窪はすまなそうに高梨を見上げると、いつも挨拶を返す間もないな、とふと思う。
立て板に水の如く、高梨は留まることを知らないかのように言葉を並べていくものだから、途中で口が挟めた試しがなかった。
「暑くて倒れていたんじゃなくて……、良かったです、先生。」
そっぽを向いた高梨の頬は、暑さではない赤みが差している。素直じゃないな、と思うが、そこがいい。
「すまなかったね。」
荻窪がもう一度、ゆっくり、はっきりと高梨へ声をかけた。心配させたことへの申し訳なさと、心配されたことが同時に胸を満たしていく。
「高梨くんも着替えたらどうだい? 外は暑かっただろう?」
荻窪の家に泊まることが増えた高梨に、そう声をかけた。高梨は暖簾に腕押しのような感覚に陥って、目を伏せる。
所詮何を言ってもこの人は無駄か、そんな諦めにも似た空気が漂ってきた。
「心配してくれて嬉しかったよ。」
荻窪は、そんな高梨を見て、ちゃんと告げなければと言葉にする。
それだけで、高梨の表情は光が差したように明るくなるのだ。
「高梨くん、こっちへおいで。」
荻窪が執筆を止めて立ち上がる。
手招きしながら案内したのは、私室から廊下を挟んだ斜め向かいにある部屋だった。そこはいつも荻窪が入り浸っている書斎とは真逆の、日陰の濃い、静かに息を潜めているかのような部屋──。
「ここに、きみが着られるような大きさの浴衣があると思うんだが……。私の古い友人のお下がりで申し訳ないんだが、きみの大きさなら合うだろう。良かったら着てくれないか?」
いままで入ったことがない納戸のような部屋に案内された高梨は、初めて見る部屋に興味津々といったように辺りを見渡した。
まるで誰かが使っていたような、時が止まったかのような、そんな部屋だ。
埃はあまりない。ということは荻窪が、こまめに掃除をしている証拠でもある。高梨は辺りを見回しながら、なにか、言葉を飲み込むようにごくりと喉を鳴らした。
こまめに掃除されているこの部屋は、時が止まっているようにも見えたが、荻窪自身があえて時を止めているかのようにも見える。
高梨は、目に見えない誰かの視線を振り払うように、おずおずと荻窪の袖を引いた。困惑と、得体の知れない不安に揺れる瞳が自分を見上げる。
「先生、あの、そこまでしていただかなくても……。」
この部屋の雰囲気を嗅ぎ取った高梨が声をひそめてそう、荻窪に告げる。つい、と引っ張られた袖口に視線を落とした荻窪が、少し困ったように眉根を寄せた。
変な意味じゃないんだと言えばいいのか。ただ、雄二郎の体格と高梨の体格が似ているから、と言い訳したらいいのか、荻窪はそのどちらも言うことができなかった。
高梨は雄二郎の存在を感じてはいるだろうが、はっきりと聞いたことはない。それをあえて言う必要があるのかと、思った。
高梨の胡乱(うろん)な瞳に気が付かないまま、荻窪は彼を一人その部屋に残して、執筆へと戻ろうとした荻窪を引き留めたのは、高梨の声だ。
「先生、もしかして、これ、先生の……、」
最後まで言えない高梨の頭を軽く撫ぜる。案ずる必要はない、という意味のつもりだったが、高梨の浮かない表情は、晴れぬままだ。
この部屋の沈殿した空気が妙に重く感じた。軽く息を吐き出すと、荻窪はもう一度高梨の顔を覗き込む。
「きみが心配するようなことは、なにもないんだ。ただ……、きみに似合うと思っただけだ。いやなら、私のを貸そう。きみの意志を尊重させておくれ。」
荻窪は少しだけ口角をあげようとした。だけど、それはぴくりと小さく動くだけで、うまくできなかった。笑顔は作りなれていない、普段から無表情でいるせいだ、と思い込む。
雄二郎のそれを押し付けるつもりはなかった。高梨がいやだと言えば、荻窪はそれなら自分のを出そう、ただ、そう思っただけだ。
だが高梨は、両手を握りこむと少しだけうつむいて、何かを考えるような仕草をした後、ぐ、と奥歯を噛みしめる。
「いえ、先生、ありがたくお借りします。」
無理やり作った笑顔が痛かった。頬に触れようとした手をさり気なく避けられて、荻窪はなにも言えずに書斎へと戻る。
残された高梨が雄二郎の浴衣を握りしめて、なにかを堪えているなど思いもしなかった。
***荻窪の怪談***
誰も見ていない。つまりは見張る者も、監視の目もないということだ。 夫婦は好機とばかりに、二人で船へと乗り込んだ。それが、自らの命運を分かつ理(ことわり)を侵す行為だとも知らずに。
「あんた、今日は一緒に海に出られるなんて、私はとても幸せだよ。」
嫁が満足げに声をかける。吹き抜ける潮風が、彼女の髪を乱していった。けしてだらしなく崩れたのではなく、その乱れは夫の目に、どこか艶かしく映る。つい、手が伸びたのも無理からぬことだった。
櫂(かい)を操る手が止まる。
「お前、今日はいつもより綺麗だな。」
夫の手が、嫁の火照った頬へと伸びた。
「あんた、だめじゃないか。」
唇では拒みながらも、綻ぶ顔を隠しきれぬ嫁に、夫がそっと口づけを寄せようとした──その時。
叩きつけるような雨が、突如として降り注いだ。
おかしい。空は雨を降らすような雲ひとつなかったはずだ。夫が狼狽えて天を仰げば、そこには鬼の形相をした入道のごとき女が、空を覆わんばかりに浮かんでいた。
息を呑んで、尻もちをついた。こんな化け物はついぞ、見たことがない。
「あんた、なにを見ているのさ?」
嫁は夫の視線を追うが、そこにはただ、暗澹とした空が広がるばかりだった。
「お。お前には見えないのか! あれが!!」
指をさす手が震える。いまにも襲ってきそうな巨大な、鬼の形相をした女の化け物が夫にはしっかりと、はっきりと見えているのに。
ひ、ひ、ひ、と吐き出す声だけが夫の口から漏れていく。
先代たちが口酸っぱく説いていた禁忌は、真実だったのだ。
いまさらながらにそう思った夫は、ただ、狭い船の中、ずるずると後ずさる以外に方法がなかった。
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