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第十三章:其の三:陽炎揺れて、息つまる

 ***荻窪の日常***  小さな音を立てて万年筆を置いた荻窪は、私室の向こう側へと耳を澄ませた。いつしか夕刻になり、蝉の鳴き声は鳴りを潜め、代わりにアオマツムシだろうか、かすかにりぃ、りぃ、と奏でる声がする。荻窪は先ほどの高梨の表情を思い出していた。  彼は言いたいことを限界まで我慢する男だ。  あの表情は言いたいことを我慢していた。そう、言い切れる自信がある。やっぱり、あのままにしておくことは良くない、そう思って立ち上がれば、源氏襖がすぅ、と開いた。 「ああ……、高梨くん。」  荻窪は、高梨に悟られないように、張り詰めていた呼気を、悟られぬよう密かに吐き出す。高梨は相変わらず浮かない顔をしていたが、それでもにこりと笑みを浮かべて見せた。  高梨は雄二郎の浴衣を着ていて、それはとても体格に合っている。だが、似合っているとも言えぬ雰囲気で、荻窪は黙ったまま高梨を見つめるだけだった。 「先生、散歩がてら、香世さんの店まで弁当を買いに行きませんか?」  それは高梨なりの息抜きの誘いだったのかもしれない。もしかすると、高梨自身が外の空気を吸いたい、そう思ったのかもしれない。 「ああ……、きみがそうしたいのなら、そうしよう。」  荻窪が高梨のやや紅潮した頬に、手を伸ばした。いつもならうっとりとそれを受け入れる高梨が、今日は──今回はぴくりと一瞬だけ、身を固くするような拒絶の動きをみせる。 「高梨くん?」  ぴくりと振れたその一瞬が、いつもと違うことに気が付いて、荻窪は高梨の顔を覗き込んだ。高梨が覗き込まれた瞬間に、ぱっと横を向いて顔を見られないようにしたことも、どこか、違和感が残る。 「どうしたん……、」 「先生、早く香世さんのところに行きましょう。」  言葉尻を奪うかのような言い方は、初めてだった。高梨がやや強引に荻窪の手を引き、その手が、夏だというのに、やけに冷たいことに気が付いた。  どうしたんだ、と問わせてくれないことが、もはや決定的だった。  荻窪は手を引かれながら、高梨の物言わぬ背中を見つめるしかない。なにか、言葉をかけようとしても、思い浮かばないからだ。なにを言っても言い訳になる、ただ、そういう気がした。  雄二郎と高梨は違う、そんなことを言ったって、高梨は雄二郎を知らないから。  高梨に惹かれたのは、自分にない強さがあったから。そう言ったって、きっといまの高梨には届かない。  荻窪は言葉足らずだと、ただただ痛感していた。  もっときちんと説明をしていれば、もっと雄二郎の話を高梨に伝えていれば。機会はいくらでもあったはずだった。  それを言葉で、態度で濁していたのは自分だ。雄二郎のことを心の奥底にしまい込んで言葉にしなかった自分への、高梨の態度は明白だ。  言葉と態度で濁し続けてきた自分への、これは明白な『報い』なのだと荻窪は悟った。  荻窪は沈みゆく思考をどうすることもできないまま、高梨に引かれるように香世の店まで来てしまっていた。  ***荻窪の怪談***  先ほどまで荒れ狂っていた波が噓のように、引いていた。  白い泡が牙のように剥き出して、船に襲い掛かる。しかし、男たちしかいない船は不思議と沈まない。波をかぶっても、まるで引き潮のように水が引く。  なにかがおかしい。  漁師たちは波を見ながらそう、感じていた。そして辺りを見渡せば、夫婦仲の良い男の船だけが見つからないことに、気が付いてしまう。  まさか。  もしかして。  そんな思いが頭をよぎる。  荒れ狂う波が去ったあと、差し込む日差しがとても静かだった。  ただ、それだけで漁師たちはすべてを悟った。  きっと、あの漁師夫婦は海に呑まれたのだろう。女神の嫉妬を目の当たりにして、恐怖を味わわされて船を破壊され、そのまま沈んでいったのだろう。  海には女神が棲むという。  だから決して、女を船に乗せてはいけないよ。  昔からそう、口伝されている理由を、今日、ここの漁師たちは身をもって知ったのだ。

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