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第十三章:其の四:陽炎揺れて、息つまる

 ***荻窪の日常***  香世の店に着いた高梨は、迷うことなく入り口を開けて顔を出す。 「香世さん、こんばんは。」  その瞬間、香世は思わず「ゆうちゃん?!」と口走ってしまった。雄二郎の浴衣を着た高梨がまるで雄二郎の生き写しのように、一瞬だけ、見えたから。 「ああ、びっくりした。高梨さんじゃないか。いつもみけにありがとさんね。」  取り繕う姿がただ、焦りを感じさせた。荻窪は香世の驚いた顔と、高梨のいつもと変わらないように務める姿に、言葉を失くす。 「お弁当をお願いできますか?」  穏やかな声が、いまは痛い。 「二人分とちびの分だね。はいよ。」  香世はすぐにいつもの調子に戻ると、「奥に行ってみけに会っていきな」そう、声を掛けた。高梨はにこりと笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げると、店の中へと入っていく。  荻窪もそれに続いたが、香世と目が合った際に「こんの馬鹿野郎」と叱られた気がした。それもそのはずだ、高梨はいま、完璧な担当編集者という仮面をかぶっているのだから。 「香世さんも、その『ゆうちゃん』という方に猫の世話を教わったんですか?」  何気ない質問に含まれる、小さな棘。  高梨が知らなかった雄二郎の姿が少しずつ、暴かれていく気がした。荻窪が、雄二郎の告白に返せなかった言葉、逃げ続けた卑怯者。  ごくりと、苦い言葉を飲み込んだ荻窪は、高梨を止めることなどできなかった。 「あ……、ああ。ゆうちゃんはあたしの幼馴染でね、いろいろ教えてくれたもんさ。」  ちらりと荻窪を見上げる香世の視線は、「言ってもいいのか」と問うている。  どちらにしても、荻窪は高梨を止めることなどできないし、きっと制しても彼は止まらないだろう。 「そうなんですね。ありがとうございます。僕は、みけに会いに行きますね。──先生は、どうされますか?」  ここで初めて、高梨が真っ直ぐに荻窪を見つめた。  そこで荻窪は気がついてしまう。  高梨の瞳が、荻窪を映していないということに。 「あ、いや……私はここにいるとしよう。」  つい、高梨を避けてしまった。香世もそんな荻窪に目を剥いて睨みつけてきたが、いまの荻窪には勇気がなかった。  いま高梨を追いかけて、何を言えというのか。雄二郎のことをあれこれ言い訳のように説明しろと、そういうのか。  また、雄二郎のように傷つけてしまったら、そう思うだけで手が震える。  一度拒絶された冷たさは、痛いほど身に沁みた。  瞳に映してもらえないことがどれほど悲しいことなのかを、実感させられた。  だから、荻窪の脚は止まってしまう。  前に進むことを拒否するように、動けない。  情けないと思いはするが、荻窪はどうしても、動くことができなかった。 「あんた、ゆうちゃんのこと話してなかったのかい!」  香世が弁当を拵(こしら)えながら、荻窪へと苦言を呈す。話したとばかり思っていた香世は、荻窪のしょぼくれた姿を見て、ため息をついた。 「確かにさ……、ゆうちゃんのことは気軽には話せないだろうけどさ……。でも、あんたが黙ってたんじゃ、高梨さんも可哀想だろう。」  手早く詰めたお弁当と、みけがいるために猫のごはんもすぐに作れるお手軽さ──。  香世が話す口調とはまるで逆の、手早さだった。  その会話を柱の陰で聞いていた高梨の存在には、気が付かぬまま──。  ──陽炎揺れて、息つまる。

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