52 / 61
第十三章:其の四:陽炎揺れて、息つまる
***荻窪の日常***
香世の店に着いた高梨は、迷うことなく入り口を開けて顔を出す。
「香世さん、こんばんは。」
その瞬間、香世は思わず「ゆうちゃん?!」と口走ってしまった。雄二郎の浴衣を着た高梨がまるで雄二郎の生き写しのように、一瞬だけ、見えたから。
「ああ、びっくりした。高梨さんじゃないか。いつもみけにありがとさんね。」
取り繕う姿がただ、焦りを感じさせた。荻窪は香世の驚いた顔と、高梨のいつもと変わらないように務める姿に、言葉を失くす。
「お弁当をお願いできますか?」
穏やかな声が、いまは痛い。
「二人分とちびの分だね。はいよ。」
香世はすぐにいつもの調子に戻ると、「奥に行ってみけに会っていきな」そう、声を掛けた。高梨はにこりと笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げると、店の中へと入っていく。
荻窪もそれに続いたが、香世と目が合った際に「こんの馬鹿野郎」と叱られた気がした。それもそのはずだ、高梨はいま、完璧な担当編集者という仮面をかぶっているのだから。
「香世さんも、その『ゆうちゃん』という方に猫の世話を教わったんですか?」
何気ない質問に含まれる、小さな棘。
高梨が知らなかった雄二郎の姿が少しずつ、暴かれていく気がした。荻窪が、雄二郎の告白に返せなかった言葉、逃げ続けた卑怯者。
ごくりと、苦い言葉を飲み込んだ荻窪は、高梨を止めることなどできなかった。
「あ……、ああ。ゆうちゃんはあたしの幼馴染でね、いろいろ教えてくれたもんさ。」
ちらりと荻窪を見上げる香世の視線は、「言ってもいいのか」と問うている。
どちらにしても、荻窪は高梨を止めることなどできないし、きっと制しても彼は止まらないだろう。
「そうなんですね。ありがとうございます。僕は、みけに会いに行きますね。──先生は、どうされますか?」
ここで初めて、高梨が真っ直ぐに荻窪を見つめた。
そこで荻窪は気がついてしまう。
高梨の瞳が、荻窪を映していないということに。
「あ、いや……私はここにいるとしよう。」
つい、高梨を避けてしまった。香世もそんな荻窪に目を剥いて睨みつけてきたが、いまの荻窪には勇気がなかった。
いま高梨を追いかけて、何を言えというのか。雄二郎のことをあれこれ言い訳のように説明しろと、そういうのか。
また、雄二郎のように傷つけてしまったら、そう思うだけで手が震える。
一度拒絶された冷たさは、痛いほど身に沁みた。
瞳に映してもらえないことがどれほど悲しいことなのかを、実感させられた。
だから、荻窪の脚は止まってしまう。
前に進むことを拒否するように、動けない。
情けないと思いはするが、荻窪はどうしても、動くことができなかった。
「あんた、ゆうちゃんのこと話してなかったのかい!」
香世が弁当を拵(こしら)えながら、荻窪へと苦言を呈す。話したとばかり思っていた香世は、荻窪のしょぼくれた姿を見て、ため息をついた。
「確かにさ……、ゆうちゃんのことは気軽には話せないだろうけどさ……。でも、あんたが黙ってたんじゃ、高梨さんも可哀想だろう。」
手早く詰めたお弁当と、みけがいるために猫のごはんもすぐに作れるお手軽さ──。
香世が話す口調とはまるで逆の、手早さだった。
その会話を柱の陰で聞いていた高梨の存在には、気が付かぬまま──。
──陽炎揺れて、息つまる。
ともだちにシェアしよう!

