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第十五章:其の二:淡く消ゆる、涙痕

 ***高梨の視点***  あの日、高梨は先生にどうしても、さようならとは言えなかった。  言いたくなかったからだ。  言ってしまったら本当にもう最後だと、先生からそう突きつけられてしまいそうだったから。  いつものように仕事に行って、いつものように家に帰る。何事もなく過ぎていく日々、騒がしい家族、近所の幼馴染──。  駆流お兄ちゃん、と呼んでいつも見かけると声をかけてくれている幼馴染の女学生の幸代は、高梨自身もそれには気がついていた。  淡い恋心に近い憧れのような気持ち、見上げられる視線に含まれる想い。高梨はそれに答えるつもりもなかったし、答えられるはずもなかった。  先生に出会ってしまってからは、もう、心に誰かが入り込む余地など、なくなってしまったから。  何かにつけて高梨に話しかけてくる幸代は妹とのようで可愛いとは思うが、それ以上には思えなかった。  大量のさつまいもや青梅も、そのひとつだ。 「よかったら一緒に」、そう言いかけるのを遮って、「これから作家先生に会いに行くから、手土産にさせてもらうね」とあえて、距離を取っていた。  ***  食事を終えて風呂に入り、布団に入って眠るまでの時間、高梨はいつも先生のことを考えていた。  初めて会ったときは、ぼんやりとした人だと思った先生が、会う回数を重ねるごとに本来なら違う人なのだと気がついた。  乱れた黒髪の奥には一重の、よく人を観察している鋭い目がある。無口なわりにすぐ人をからかう言葉の裏には、優しさがあった。  派手に笑うことはないけれど、低い声で笑う、くつくつという笑い声が好きで。  これ以上は踏み込んでくれるな、と一線を引く優しさを持った人だと思った。  なぜそんなふうなのかと気になった。純粋な興味だ。しかし、今となってみればそれは深淵を覗くに近い行為だったと思う。  先生の黒く淀んだ瞳の中になにがあるのか、どんどん引き込まれて行った。そこで見たのは、誰かの気配だ。  写真のない写真立てを大事そうに、いつも目の届くところに置いている。大きさの合わない着物を衣桁(いこう)に掛けている。時々、話しかける姿も目撃していた。  そして、決定的だったのは、高梨に貸してくれた着物類。明らかに、先生の身体の大きさには合わないものだった。  先生の胸の奥には、高梨が手を伸ばしても届かないほど深いところに、想い人がいるのかも知れない。そう思ったら、心が苦しくなった。  いつしか、あの一重の瞳が自分を見て薄く笑うのを見るのが好きになって、嬉しく思うようになっていた。  ──先生が好きだ。  ただ、漠然とそう、思った。  先生が白猫のちびを保護した日、猫という生き物を初めて触った。柔らかくて温かくて、ぐにゃりとしてしていた──。  近所の猫が発情して鳴くたびに、怖いと感じていたはずが、いつの間にかちびを通して怖いと感じなくなった。  柔らかなちびの身体はときに温かく、時には優しく、そっと高梨を温めてくれた。  見上げてくる真っ直ぐな玻璃のような青い瞳は、恐れることもなく、与えられることを享受する。  すべて先生がちびに与えたものだった。  漠然と好きだ、と思っていたはずが、気がつけば深みにはまっていた。こんなに温かくて優しい人がなぜ、こんなにも厳しく一線を引くのか──ただそれがどうしても気になって踏み込んでしまった。  好きになった人がいるんじゃないか、そう、踏み込んだ。その瞬間の先生は、切れ長の瞳を僅かに見開いただけで、なにも言わず。  ただ、重いため息をついただけだった。  否定も肯定もしなかった。  それが雄弁だ。  先生には、きっと深く想う人がいるんだろう。  先生に触れたい。その心に触れてみたい。  どんな手触りがするんだろう、どんな音がするんだろう。  編集長から古い扇風機を譲っていただいたとき、高梨はとうとうその一線を超えてしまう。  荻窪の頬に伝う汗に、触れてしまった。  鷲掴みにされた身体に残る、先生の手のひらの硬さと熱さ、そして、頬の柔らかな感触──。  それ以上触れていたら、唇を寄せてしまいそうになったから、冷えたお茶を用意するふりをして、高梨は逃げた。  先生は「さっちゃん」のことを少し誤解しているようだった。高梨にとっては家が近所の幼馴染で、歳の離れた妹のような存在だ。  まだ女学生の彼女は、歳の離れた高梨になにか淡い想いを抱いているのは感じていたが、それはいずれ無くなるもの、そう思っていた。  焼き芋を食べているとき、ちびに焼き芋を与えているときにぽつりと言った「少しなら与えてもいいんだ」という言葉は、だれから教わったんだろう。  あの写真のない写真立ての人なんだろうか。  そう思ったら、無意識に焼き芋を握る手に力が入った。  それを先生が止めてくれて、焼き芋が無事だったことを思い出す。 「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」  あのとき、詠んでいたのはこの唄だっただろうか。  先生は、だれと別れ、その別れを憂いていたのだろう……。  さっちゃんとのことを、先生には誤解して欲しくなくて、つい、本気になってしまった。あの日は背広が濡れて、洗濯屋に出したけれど、しばらくは着物で仕事に通ったこともあったのだ。  ──あの時、いつだったか先生から借りた着物の、少しだけ余る袖の長さが、高梨にはたまらなく愛おしかった。  そこかしこに先生がいる。  高梨くん、と呼ぶ落ち着いた低い声が好きだ。  耳がまだ先生の声を覚えている。  高梨は布団の中で身体を丸めて耳を塞いだ。  耳がまだ先生の声をしっかりと覚えている。  忘れられない。  人は最初に、声を忘れるというのに。  高梨は先生の声がまるで刻まれてしまったように、忘れることができなかった。  みけを保護したときも、世話の問題から香世に預けることになったときだって、先生は無責任なことは言わなかった。  自分自身のことには肝心な時に逃げるくせに、それ以外にはしっかりと立ち向かって逃げないその後ろ姿が堪らなく──好きだ。  雪が降り積もった日、背広が濡れても構わないと思うほど、先生が心配だった。  無我夢中で家の前を雪かきしていたら、先生が心配そうに、だけど、高梨の存在に驚いていた。  雪と汗で濡れた背広を先生が洗濯屋に持っていくと言い出したから、止めるのが大変だった。眉間に皺を寄せて心配そうに湿った背広を衣紋掛(えもんか)けに掛ける先生の姿は、ちびの世話を焼いているときと同じに見えた。  結局、また書斎に泊めてもらったあの夜。  着替えていたら、ちびの通り道を作るために襖が開いたのが分かった。  ここにいたら、着替えているのが見えるかもしれない、少し避けようか、高梨がそう迷っているうちに先生が一瞬こっちを見た気がした。  慌てた声で謝られて、高梨は思わず笑いそうになってしまう。そんなに慌てなくてもいいのに、と思いながら袖を通した着物は、先生のものではないとはっきりと気がついた。  だって、着物の大きさが違っていたから。  いつも衣桁(いこう)に掛かっている濃紺の着物と同じくらいか、それくらいの大きさだったように思う。  ああ、先生は過去にこれを着ていた人と一緒に暮らしていたのかもしれない、そう思うとぎゅう、と胸が痛くなった。  すごく、いやだと思ったことを覚えている。  この着物を着ていた人が、先生を抱きしめたんだろうか。そう、想像してしまった自分もいやだった。  雨が降った日は、ちびと先生を香世の定食屋で見つけて、傘を持っていないだろうと急いで走った。  その時の香世の「昔はあんたも、猫が苦手だったのにね」っていうひと言は、高梨にとって決定的だった。  つまり、先生を猫好きにした人がいるということだから。  それが着物の持ち主なのだろうということは想像がついたけど、確信は持てなかった。  だから、確証が欲しかった。知りたかった、先生を全部、欲しいと思ったのはその時だったかもしれない。──たとえその場所に、まだ冷めやらぬ「誰か」の記憶が残っていたとしても。  同じ温度で自分自身を見てほしい、そういった思いが口をついで出たのは、「僕では頼りないですか」だった。  困らせることは分かっていた。先生の震えた大きな手が伸ばされたけど、そのまま力なく落ちていく。  先生はまだ、怖がっている。  ただ、傍にいたいと、そう思った。高梨は自分自身では頼りないかもしれない、でも、先生の傍にいたい。そう純粋に願うしかない。  先生の瞳には、誰が映っているのだろう。誰を、追いかけているのだろう。時折見せるあの、遠くを見る視線は、なにを意味しているんだろう。  布団を取りに行ったとき、無防備な先生の背中に抱きつきたい衝動に駆られた高梨は、人知れずごくりと喉を鳴らした。  抱きついてしまったら、きっと先生は自分を拒絶するだろう、あの優しくも厳しい目で一線を引くだろう。そう思ったから、できなかった。  先生はなにか予感があったのだろう。  驚いたように振り返り、そして、手にしていた布団を落として座り込んでしまったから。  その瞬間、高梨は先生の中でなにかが変わった気がした。そう思った途端、胸の奥がざわついて、もう、立ち止まれないと本能が告げていた。  先生との距離を詰めるのは今しかない──そう、本能で感じ取った。  高梨は自分が卑怯だと思った。この瞬間に想いを伝えなかったらきっと、受け入れてはもらえないだろう、そう感じたからだ。  緊張が走る。  呼吸が乱れる。  ゆっくり息を吸って、声が震えないように、できるだけ、努めた。  逃げないで、先生。  そう願いを込めて、そっと手首を掴む。 「先生。」  声をかけると、先生はびくりと震えた。纏う空気が硬くなる。 「先生、怖がらないでください。」  できるだけ穏やかに、静かに言うことだけを考えた。目の前の先生はきっと、耳を塞ぎたかったに違いない。掴んでいた先生の手首が微かに振れた。  でも、聞いてほしかった、これは高梨のエゴだ──。 「僕、先生に伝えたいことがあるんです。」  怖がらないように、丁寧にひと言ひと言をゆっくりと、噛み砕いた。  先生の瞳は、次に来る言葉を予想していたかように見開かれる。  こんなにも怖がる理由って、なんなのだろう。  だけど、今しかないのもまた事実だ、高梨はゆっくりと言葉を選んだ。 「僕、先生にずっと……魅せられているんです。」  ずっと、そうだった。  先生から目が離せない、先生自身も、先生が書く怪談も、先生が慈しむちびも、すべて。  ──僕はどうしようもなく、先生が欲しい。  その想いを込めて寄せた口づけは、とても淡い。  触れただけで温もりを感じ、少し乾いた先生の唇は震えていた。  ゆっくりと離れて見つめると、先生は大粒の涙をぼたぼたと流している。  高梨の思いの丈は先生に届いたように、抱きしめられた。きつく、骨が軋むほどに。  苦しい、と思うと同時に、肩口に先生の涙を感じた。そして、聞こえてきた小さな告白の言葉。 「……私も、きみに魅せられている。」  この言葉は信じられないのと同時に、震えるほど嬉しかった。高梨自身が、先生に必要とされていると思ったから。  先生を手に入れる第一歩だとも思った、今となってはそれがただの、自己満足だったことだけが、悲しい。

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