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第十五章:其の四:淡く消ゆる、涙痕

 ***高梨の視点***  仕事から帰ってきたら、居間に幼馴染のさっちゃんがいた。彼女は歳下の女の子で、いまは女学校に通っていたはずだ。  花嫁修業をしているとか、なんとかで、いまは母親から料理を教わっているのだと話していた。 「駆流お兄ちゃんは、どう思う?」  夕飯のときに出されたおかずの中に、どうやらさっちゃんが作ったものがあったらしい。  あの日以来、家で食べる料理の味がさらに分からなくなっていた高梨は、どれのことか分からないままに適当に返事をした。  その場から早めに切り上げようと、風呂へ行くことを告げれば、自分の父親から「お前もそろそろ結婚を考える歳じゃないのか?」とお小言をもらう。  考えたくなんて、なかった。 「父さん、俺、まだまだだからさ……、もう少し頑張らせてください、風呂に行きますね。」  父親の言葉を軽く否して、会話を切る。  先生の存在がなければ考えたかもしれないが、知ってしまったいまでは考えることなんてできなかった。  結婚したことで、高梨は自分が幸せにはなれないと思うし、相手も幸せにはできないと思う。  心の中の先生の存在が、あまりにも大きすぎて。 『高梨くん、今日は一緒にいてくれるかい?』  そう言ってくれた優しくて低い声がこだまする。  湯船に浸かりながら、高梨は涙を流した。  会いたい。  ただそれだけが胸を埋めていく。  あのとき、あの深く口づけをした日、先生を止めていなかったら、どうなっていたんだろう。  先生に身体を開いていたら、いまここで一人で泣いていなかったのだろうか。  ただただ、後悔ばかりが溢れ出る。  着替えておいで、と言われたあの日、行李に入っていた着物はぱりっとしていて袖が通されていないものだということは、すぐにわかった。  さすがに、誰かが着ていた着物を着ていいとは言わないところが荻窪先生だ、と思いながら部屋を見回したとき、使われていない文机が目に入ってきた。  まるで、高梨を呼んでいるかのように。  近づいてみれば、文机の上には一枚の古びた写真があった。  自分が写ってる? と一瞬思ったが、写真の中の彼は自分よりも髪が少し硬そうで目つきも睨んでいるようだった。なによりも、無精髭が生えていたから、明らかに自分ではないと分かる。  この人はだれだろう、そう思って裏を返してみれば「七門雄二郎」と走り書きのように記してあった。  その文字は先生のもので、だけど、今の文字よりも幼さを感じた。  香世の定食屋で聞いてしまった話、先生が話してくれた過去のこと、それらが全て、一本の線に繋がった。  高梨は、自分が雄二郎の代わりなんだと思い込んだ。だから、先生に必要とされたんだと、そう思った。  なんて皮肉なんだろう。  こんなにそっくりな人間が、同じ人間の前に現れるなんて。  そして、惹かれてしまうなんて。  雄二郎は戦死したと聞いた。遺体も残らない状態で、遺族には遺品のみが届いたそうだ。  その状態はおそらく、言葉にするのが憚られるほど悲惨な有様だったのだろう。  先生はその時から時を止めてしまったように、生きてきた。  涙はとうに枯渇しているはずなのに。  流れるものはもうなくなっているはずなのに。  涙は透明な血液だ、先生はずっと血を流し続けているのだろう。  だからこそ、その涙をすくい上げてしまいたい。  ──僕は、先生の時間を進めたいんです。  ただ、そう在りたいと願うばかり。  ──淡く消ゆる、涙痕。

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