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第十六章:其の一:冬緩びて、息白し

 雪解けが進んだ時期、わら靴を履いた人々は雪下駄(せった)へと履き替える。少し緩んだ服装は、気温が温かくなった証拠だ。若木が芽吹くために、ゆったりと力を蓄えている、そんな時期──。  ***荻窪の視点***   布団から上半身を起こした荻窪は、ぼんやりとしたまま足元で丸くなるちびに目を向ける。  秋の間中、ちびはおもちゃをかき集め、荻窪の目の前に並べていく行動を繰り返していた。  遊んではみるものの、すぐに咥えて奪い取り、居間に向かって、つん、と鼻を天井に向けて走っていく姿を、何度追いかけたものか。  ちびの出入り用に少しだけ開けた障子をすり抜けて、主が不在になった座布団の上へと置いては、小さく鳴くことを繰り返していた。  語尾が上がる鳴き方で、誰かを探しているように。  さすがの荻窪も、ちびの行動の意味を分かってしまう。きっと、そうなのだろう。  いつぞや読んでいた「好まない」純愛小説は読み切ってしまった。  雄二郎が言っていた『愛だの恋だのなんてな、所詮自己満足だ、そうは思わないか? 康路(やすみち)。』という言葉を改めて、実感する。  理解できない、そう思っていたのに、後半は食い入るように読み込んでしまった自分がいた。  恋しい気持ちがなんなのか、心に抱くこの想いがなんなのか、荻窪はもう迷ってはいなかった。  荻窪は、高梨のことが好きだと思う。  しかも、ただの好きではない、性愛を含めた愛だということも理解していた。  朧げに突き動かされていた若い頃とは、何もかもが違う。  見守るだけの親愛と、高梨に向ける、この腕の中に閉じ込めて、貪るように喰らい尽くしたい、そう思う気持ちはまるで違った。  この気持ちは、荻窪にとっては脅威だ。  こんなに激しい気持ちを、高梨にぶつけてもいいのだろうか。高梨が壊れてしまうのではないか。  そう思うと、ただ、沈黙を守り続ける他なかった。  ちびの首輪はいつの間にかぼろぼろになり、いまは外されて、丁寧に畳まれ居間にある箪笥の引き出しに仕舞われている。  それも、小さな箱に大切に保管された状態で。  真っ白な毛並みのちびが、赤い端切れでできた紐を外したのはいつだったかは覚えていない。  どこかで引っ掛けたのか、廊下にぽつりと落ちていた。それを拾って、大切に保管したのは荻窪だ。  それ以降、新しく布の首輪を付けることもなく、真っ白なまま、ちびは家の中を歩き回っていた。  少しずつ、ほんの少しずつ、家の中の記憶が風化してしまう。昨日は座布団の匂いを嗅がなくなったちびがいた。  今日は割烹着の匂いを嗅がなくなってしまうんだろうか。  荻窪は、恐ろしくなって立ち上がった。  しかし、高梨の家がどこなのかは知らない。  職場に行けば分かるだろうが、それこそ、そんなことをするのは憚られる。  会いたいと望みながら、荻窪は、高梨が来てくれることをいつも、ただ待っていた。  唯一、高梨が行きそうな場所は香世の定食屋だ。  あの店には、高梨が保護した黒猫のみけがいる。  ──会いに行っているかもしれない。  そう思った荻窪はいても立ってもいられなくなった。  外套を身に着けて、雪下駄に足を突っ込んだ。 「ちび、出かけてくるから留守番していなさい。」  家の奥に向かって声をかける。  玄関を開けると、ちょうど夕日が差し込んできて、雪を橙に染めていた──。

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