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第十六章:其の二:冬緩びて、息白し
***高梨の視点***
仕事をしていた高梨がゆっくりと背伸びしたのは、ちょうど日が傾きかける直前のことだ。
編集長から、最近は先生が締め切りのかなり前に原稿を送ってくれるようになったと聞いた。おかげで助かるよ、なんて言葉を言われて、高梨は曖昧に返事を返すしかない。
高梨に会わないように、締め切りよりも早く原稿を送ってきている、と思えば、眉根が寄ってしまう。
会いたいと思ってしまうのは自分だけなのだろうか。
先生の原稿は、正直に言ってしまうと、直しようがないほど完璧だ。
だからこそ余計に、高梨は不安になった。
居ない人を想いながら、荻窪は時間を止める。
恐ろしいほど丁寧に生活するからだ。
出会った頃の先生は、丁寧な生活をしているのにどこか、浮世離れしていて世間に疎く、自分の身の回りのことには無頓着だった。
いまでも無頓着ではあるけれど、感情が乗った生活をしているところを見ていた。
まるで一分毎に規則があるように、ぼんやりとした表情で、日々の律動を守るような人だった。
締め切りぎりぎりまで原稿を書かないのは、高梨と話す時間が楽しかったからなのだろうか。
それとも、あの広い家で独りでいる孤独を、少しでも無意識に減らしたかったからなのだろうか。
こんなのは、自分が知っている先生ではない。
ふと、高梨はそう思った。
先生はもっとぼんやりしているようで、周りをしっかり観察するような人で、慈しみ深い人で。
誰かが自分のせいで傷つく前に一線を引けるような人だ。
その全部を、高梨は頭で、身体で覚えている。
踏み込まれすぎたときの、少し冷えた黒い切れ長の瞳を、困ったときには言葉を飲み込むくせを、心の奥に触れられそうになった途端に、背中を向けて拒絶そのくせも。
無骨な大きな手が実はとても温かくて、触れるときは恐る恐るなのを知っている。
ちびを撫でるその手が、あまりにも柔らかいことを知っている。
なにも話さなくても、沈黙が怖くないのは先生といるときだけだ。
高梨は自分の中に息づく先生の存在の大きさに、改めて気が付いた。
──忘れられるはずがないんだ。
高梨は原稿を推敲するために持っていた万年筆を、手の中で弄ぶ。執筆をしようとする直前の先生のように。
この、原稿を書くときに見せる万年筆の癖ですら、高梨は無意識に模倣している。
ちらりと横目で壁にかかっている時計を見やれば、夜の七時を過ぎていた。推敲も終え、原稿は茶封筒に仕舞い込んで、編集長へ渡す。
「高梨、帰宅します。」
そう告げて、長時間の労働から離れるように、ゆっくりと帰路に着いた。
通勤時間帯から外れた市電は、空いている。
高梨は原稿を睨みつけていた目に手を当てると、ゆっくりと息を吐き出した。
毎日が時間に追われている。
だからこそ、忘れられると思っていたのに、それは違った。いつも、気がつけば先生のことを考えている。
家に帰るのもなんだか、気が乗らない。
最近は女学校の卒業が近いさっちゃんと、家で会うことが多くなって、なんだか居心地が悪い。
父は、さっちゃんと結婚してほしいと望んでいるんじゃないだろうか。
だから、余計に帰りたくなかった。
かといって行くところもない。
高梨は心も身体も疲れ切っていて、ぼんやりと考えていた。
先生の家は、いつも静かだった。
温かいちびと、無口だけど優しい先生。
──会いたい。
路面電車の駅を降りた高梨は、無意識に香世の店へと足を向けていた。
家に帰るのは辛い。
かといって行く場所もない。
唯一、思い浮かんだのは、みけがいる香世の店だった。
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