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第十六章:其の三:冬緩びて、息白し

 ***(荻窪の視点)***  玄関から一歩踏み出せば、真冬よりも暖かな空気が肺に送り込まれた。  雪は解け、道路はぬかるんだ雪で覆われている。幾ら雪下駄を履いているといっても、ゆっくり歩かなければ、足元を掬われてしまいそうだ。  ぎしり、ぴちゃり、とゆっくりと一歩ずつ歩を進める。  香世の店にはあれからはそういえば、一度も顔を出していなかった。  たまに香世が自分の店を閉めたあと、弁当を持って来てくれていたくらいで、あの日からあの場所へは行っていない。  香世も気まずいのか、あの日の話はしなかった。  時折話す店の話、ちびの話、店の常連の話など、当たり障りのない日常会話しか話さなかった。  香世も肝心なことは話さず仕舞いだ。  荻窪も、肝心なことは話せていない。  それでも、過去に雄二郎を亡くした友人であることには変わりなく、香世はもともと世話焼きの質だから、荻窪を放ってはおけなかったのだろう。  荻窪は、いつも届けてくれる香世の弁当をありがたく受け取っていた。  だが、食べてもあまり味を感じない。砂を噛んでいるのだろうか、そう思うほどに。  咀嚼しては飲み込む動作を繰り返しているものの、それはまるで死なないための儀式のようでさえあった。  朽ちるのを待つ者のように。  唯一、ちびだけが明るく見える。  灰色に見えるその世界で、ちびの白い毛並みが、小さな足が、荻窪を生かしていた。  荻窪がなにより怖いのは、忘れられることではない。自分の記憶から高梨が消えていくことだ。  彼が残した匂い、音、温度、優しさ、柔らかさ、涙──。  そのどれもを忘れたくないと思う。  吐き出す息は、まだ白い。  だが確実に季節は進んでいる。  荻窪はそこの角を曲がれば、香世の定食屋があることを知っていた。  そしてふと、躊躇ってしまう。  このまま香世の店に入ってもいいのだろうか。  いつものように?  それとも、久しぶりだね、と声をかけるべきか?  荻窪の足がそこで一度止まった。

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