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第十六章:其の四:冬緩びて、息白し

 ***高梨の視点***  路面電車の駅から歩いて行ける距離に、香世の店がある。香世の店は先生の家からも歩いていける範囲にあり、実を言えば、高梨の家も歩いていける範囲にあった。  路面電車の駅を中心に、まるで円を描くように定距離で繋がっている。それがまさしく、皮肉だ。  香世の店は昔からそこにあるという。  ということは雄二郎がかつて暮らしていた家も、その生活圏にあるということだ。  高梨がまだ、先生の存在を知らなかった頃、すれ違っていた可能性すらもあるというのが、これ以上ないほどだと思う。  学生時代に読みふけった雑誌の中に、先生が書いた怪談があったかもしれない。  だけどその怪談は、先生が雄二郎を思って描いたもの──。  悔しい、と高梨は思う。  同じ時代を生きていたら、なにか変わったのだろうか。  ──少なくとも、雄二郎という人がいなかったら、いまの先生は居なかったんだろう。  歩きながら高梨はそう考えていた。  それならもし、雄二郎が生きていたら?  先生と肩を並べていたのは雄二郎だっただろう。  そして、編集者として入り込んだ高梨を、余所者扱いしていたかもしれない。  そう思うだけで、胸が苦しくなった。背広の胸元をぎゅ、と握る。  ため息とともに吐き出す息はまだ白く、冬の寒さを感じさせた。  先生はあのとき、なんて言っていたんだろう。 『いや、似ていないよ。雄二郎と高梨くんは似ていない。』  そうはっきりと言い切ったのだ。  姿はこんなに似ているのに、似ていないなんて。  そんなことがよく言える……。  高梨の眉根に皺が寄る。 『高梨くん、私の話を聞いてくれ──、』  耳に残る先生の急いだような、焦りを含んだ声。  先生はあのとき、まだなにか言おうとしていた。ただ、高梨がそれを遮ってしまっただけだ。  その場にいたら、泣いてしまいそうで。  涙をこらえ切れなくなって。  だけど、今となってはなにを言おうとしていたのか、気になってしまう。  香世に聞いてみようか、雄二郎のことを。  どんな人間で、どんなふうに生きた人なのか。  もしかしたら、なにか少しでも分かることがあるかもしれない。  いまさら雄二郎のことを知って、何になるのかという思いもあるが、高梨はそれでも知りたいと思った。  前に進むには、留まってはいられないから。  自分がいま持っている情報はあまりにも細切れすぎて、まとめられないから。  ばらばらになっている欠片をひとつずつ集めて、然るべき場所に納めていけば、もしかしたらなにかが変わるかもしれない。  高梨はそう決意した。  見えてきた香世の店、温かい明かりが灯る。  入り口の取っ手に手をかけて、からからと、ゆっくり引くと、香世の驚いた顔と目があった。 「高梨さんじゃないか!」 「ご無沙汰してます、みけは──元気ですか?」  ***荻窪の視点***  荻窪は、ちびにごはんを用意していなかったことに気が付いて、元来た道を引き返していく。  ごはんを忘れたり、遅れたときのちびの不貞腐れようといったら、それはすごいから。  見えないはずのふくれっ面が顔を出すのだ、頬を膨らませて、つん、とそっぽを向くような素振りをする。  あの顔をしたあとは、夜、眠るときまで仕返しがひどい──。  日暮れに合わせてやや、雪が固くなり、べちゃべちゃから、ざくざくという音に変わる。  身体が冷えたな、と思いながらも少し急ぎ足で家まで戻れば、案の定、ちびが暴れまわっていた。  居間の箪笥の上に乗り高いところから低いところへ飛び降りてみたり、きちんと畳んである手拭いを毛散らかしてみたり──。  ふんす、と怒りの鼻息すら聞こえてきそうなちびの行動に、苦笑するしかなかった。 「ちび、おいで。ごはんを作ってあげようね。」  荻窪は、台所に立って火を起こす。  お粥を作りながら、ちびのための魚を焼いて。  時間がかかるがこれもちびのためだと思うと、苦にならない。  あの時、雄二郎から猫の世話を嫌々ながらにでも教わっててよかった、そう心から思える一瞬だ。  魚を焼きながら、荻窪はあの時のことを反芻する。  雄二郎に言葉を返せなかった理由、あれはきっと、自分が雄二郎と同じ温度の感情を抱いているわけではないと、分かっていたからではないのだろうか。  それを言えば、雄二郎は傷ついてしまう。  だから言葉を返すことができなかった──。  だがいまは、あの時言葉を返せていたのなら、こんなふうに思うこともなかったのだろう。  それは高梨に惹かれなかったかもしれない未来のことではないと思う。  高梨には、きっと惹かれていた。  どんな出会い方をしても、きっと。  心の奥にある隙間に入り込んで、温めて、抱きしめてくれたのは高梨だけだったから。  言葉をくれるまで待ち続けてくれる根気も、追い詰めないその距離感も、高梨だからこそ持っているものだ。  だからこそ、荻窪は高梨に惹かれたのだろう。  雄二郎に似ているから惹かれたのではない。  荻窪はただ、そのことを伝え損なったことだけが、悔いとして残っていた。  ちびに夕飯を与え終えた荻窪は、いつもの寝床の座布団に寝転んだちびに出かける旨を伝えると、ふたたび香世の店へと足を向ける。  すっかり夜になり、空気は急激に冷え込んできた。  外套の袷をしっかりと握り締めて、ゆっくり、かつ慎重に歩を進める。  数カ月ぶりだろうか、香世の店の明かりを目にした荻窪は、どこか安堵したような息を吐いた。  入り口の取っ手に手をかけて、心を整えるためにゆっくりと息を深く、吸い込んだ。  ──冬緩びて、息白し。

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