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第十七章:其の二:春待ちて、影ゆらぐ

 早く行きな、と手を振られて送り出された荻窪は、高梨の肩を掴んだまま歩き出した。  この期に及んで逃げることはないだろうけれど、荻窪にとってはそれが怖い。  片手に弁当箱を抱えたまま、いつまでも離さない肩の手を、高梨はそっと外した。 「あの、転んだら危ないので……。」  荻窪はそれに対してちらりと視線を送ったかと思うと、今度はそっと手を握る。 「あの、僕、逃げないので!」  まさか手を繋がれるとは思いもせず、高梨の声は思わず大きくなった。 「ああ、知っているよ。でもね、私が繋ぎたいんだ。」  静かにそう、荻窪がつぶやいた。ずっと影を追っていた荻窪にとって、いまここにいる高梨が本物であることを、どうしても確かめたくて。  自身の手にその温もりを感じていたかった。  紛れもなく高梨がいま、自分の隣を歩いている。  手のひらを通して、温もり、鼓動や、歩く振動も伝えてくれた。  彼はいま、確かにここにいる。  荻窪はそれを実感していた。  家に着くまでの間、ただの一度もその手を離すことはなく、家に着いてからは、玄関の鍵をしっかりと掛けた。  逃げられるから、なんて思っているわけではなかった。ただ、閉じこめて喰らい尽くしたい、そう思っていた感情の現れが、鍵を掛けるという行為に至ったのだろう。  重厚ながちゃり、という音は、物理的にも閉じ込めたことにほかならない。  廊下の奥からちびがとたたた、と軽い足音をたてて走ってきた。 「んにゃ!」  高梨に向ける「おかえり」の声。  ちびは一度でも、帰宅した荻窪にそんな声で鳴いたことはない。荻窪に対しては、す、と居間または書斎か寝室から眠そうに出てきて、顔を出すだけだ。 「ちび、覚えていてくれたの? ありがとう、ちび。」  抱き上げて、その柔らかくて白い身体に頬擦りをする。無臭のはずの猫の香りが、とても懐かしく感じたのか、愛おしそうに頬ずりをする。 「居間においで、高梨くん。」  静かな荻窪の声が、高梨を呼んだ。ひたひたと廊下を歩く音は相変わらずで、その後をちびが付いていくのも変わっていない。  高梨はそっと靴を脱ぐと、脇に揃えてから荻窪の後を追った。  荻窪は高梨が後を付いてくる音に、耳を澄ませた。このまま帰ることも彼にとっては選択のひとつだろう。帰したくはないけれど。  だが、高梨の足音が聞こえてきて、気が付かれないように安堵した息を吐き出した。  すぅ、と開けた障子の向こうには、いつもと変わらない居間が広がっている。ここ数カ月、荻窪がちびとともに過ごした時間、そして、重厚な卓袱台(ちゃぶだい)の上には、あの日高梨が持ち帰ることすら忘れていたメモ帳と、万年筆──。

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