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第十七章:其の三:春待ちて、影ゆらぐ

「先生、これ……、」  その光景に驚きを隠せない高梨は、思わずそれを手に取った。少し日に焼けただろうか、だけど、何ひとつ変わらぬままそこに置いてある。 「ああ、きみのだ。」  荻窪の声はあくまでも静かだ。しかし、ここに、高梨がいる、ただそれだけが心を震わせていた。 「きみが居なくなってから……、触るのが怖かったんだ。」  荻窪は、滑稽だろう? と言いたげに、自嘲めいた笑みを浮かべる。 「お茶を淹れるから、少しばかり待っていておくれ。」  荻窪は台所に湯を沸かしに歩き出す。  冷えた身体のまま話し続けるわけにもいかない。  温かい茶を淹れて、火鉢に火を起こそう。  そう言い置かれた高梨は、どうしていいのか分からずに、いつものように置いてあったその座布団に正座する。  そこにちびが嬉しそうに擦り寄ってきて、ごろごろと喉を鳴らした。  もう、会うことはないと思っていたちびが、こんなに歓迎してくれている。  匂いを覚えていてくれたのか、それとも記憶に姿や声があるのだろうか、高梨は愛しそうにちびを撫でた。  そして、高梨はちびの首輪からいつもしていた赤い紐が無くなっていることに気が付く。 「あの赤い紐はね、解けてしまったんだ。だから──仕舞ってあるよ。」  湯を沸かしている間に、火鉢に火を入れに戻ってきた荻窪が高梨にそう答えた。 「ちび、きみに新しい贈り物があるんだ。」  高梨はそう言いながら、ポケットの中に手を入れる。ちびへの贈り物、それは高梨がいつも持ち歩いていたのだろう、新しい赤い紐の首輪だった。 「持ち歩いててよかった。」  そう言って、高梨がちびの首にそれを緩く結びつける。ちびはそれを当然の権利、とばかりにじっとつけてくれるのを待っていた。 「少し大きくなったんだね、ちび。」  首輪が外れるのも無理はない、というように高梨が笑った。頭を撫でてその成長を確かめる。  その時だった。  荻窪が大股で歩いてきて、傍に来てしゃがみこんだと思ったら、高梨の手首を掴む。その手は僅かに震えていて、荻窪はそれが歓びなのか、驚きなのか自分でも分からなかった。  高梨の顔をのぞき込んだ。 「いつも、持ち歩いていてくれたのかい?」  静かな切れ長の瞳には、高梨が映っている。 「はい、あの、先生……?」  戸惑いながらも答えると、荻窪はどうしようもなくなったようにきつく眉根を寄せた。  次の瞬間には、荻窪は高梨をきつく抱きしめていた。その腕の無骨さを身体に感じたのか、高梨は一瞬戸惑いを見せる。しかし、彼もまたすぐに、躊躇うことなく荻窪の背中に手を回した。  荻窪は、高梨をこのまま腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られる。 「──会いたかったんです、先生。」  その腕の中で、高梨が小さくつぶやいた。  荻窪の筋肉がしなやかに付いた背中に手を回した高梨の、指の感触が堪らなく愛おしい。  このまま離れるのが惜しいくらいだ、と思えば、そのままの勢いで口づけを交わしたくなる。  だが、その瞬間に、かたかたかた、と台所から湯が沸いてやかんの蓋が暴れる音が響いてきた。

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