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第十七章:其の四:春待ちて、影ゆらぐ

 渋々身体を離した荻窪は、高梨の冷えた頬を撫でて「少し待っていてくれ」と台所へ向かう。  急須といつも高梨が使う湯呑み、そして荻窪の湯呑みを盆に入れて居間に戻ってきた荻窪は、ゆっくりと卓袱台に座った。  丁寧に茶を少し蒸らしてから、そっと注ぐ。  その所作は高梨がとても久しぶりに見る、荻窪のものだった。  丁寧な所作。  それは荻窪が、子供の頃に育ててくれた祖母から引き継いだものだった。 「お茶を飲みながら、香世さんの言うようにまずはお腹を満たそうか。」  す、と高梨の目の前に弁当箱を置く。  箸を添えて、両手を合わせて「いただきます」と声を出す。  いつもの食事の前の儀式も、変わっていなかった。  荻窪は恐る恐る香世の弁当を口にする。  味があまり感じられなかった日々を思い出した荻窪は、ほんの一瞬躊躇した。  いままでのことを考えると、今日も味がしないかもしれない、と不安が募る。  しかし、ひとつ、ふたつと咀嚼をしてみると、じわりじわりと味がしてきた。高梨が居なくなってから、なくなっていたのは色だけではなかった。味すらもなくなっていたようだ。  それだけで、荻窪は世界に色彩が戻るような感覚を覚えた。  高梨が居なくなってからの世界は、本当にちびだけが色を放って見えたのは、嘘ではなかったようだ。  荻窪はうつむきがちにお弁当を頬張る高梨を、盗み見た。黙々と食べているその姿は、まるで小動物のようだ。思わずくすりと笑みが洩れる。 「どうしたんです?」  顔を上げた高梨が、荻窪を見つめた。荻窪の瞳には高梨が映っていて、そして、笑みを浮かべている。それが不思議なのか、高梨は荻窪から目を離そうとしなかった。 「ああ、いや……、可愛いなと思ってね。」  前に読んでいた純愛小説に書いてあった「かわいいと思ってね」という言葉を、現実で使うとは思っていなかった。  その瞬間の高梨は、一瞬なにを言われたのか分からない、という、表情のまま固まった。  そのまま、いつもの座布団で眠るちびに視線を移し、もう一度荻窪を見る。  荻窪の視線が高梨から動いていないのを確認してから、ごくりと飲み込んだ。  先ほど荻窪が入れてくれた茶を口に含むと、ゆっくりと飲み下す。茶の渋みは少なくてまろやかな味が広がった。高梨は思わず「美味しい……」と呟いていた。 「僕が、ですか?」  あり得ない、という表情を浮かべる高梨は、なんで? どこが? というように、落ち着かない様子を見せる。 「私がそう思うのは、きみだけだよ。」  ゆっくりと湯呑みに手を伸ばすと、何事もなかったかのように茶を飲んだ。ごくりと茶を嚥下する喉仏が、ゆるりと動く。  いったい先生はどうしてしまったんだろう、とでも言いたげな高梨に、もう一度笑みを浮かべると、荻窪はそろそろ話をしようか、と切り出した。 「私はね、ずっときみに伝えたかったんだ、あの日、きみが帰ってしまったあの日、きみと雄二郎は似ていないと。」  高梨はその名前を聞いて眉根を寄せてうつむいた。  だが、今回は黙って聞いている。 「雄二郎とはね、確かに仲が良かったし、彼から告白もされた。私が雄二郎に答えられなかったのはね、雄二郎と私の気持ちの温度が違ったからなんだ。」  高梨は驚いたように顔を上げた。 「私が抱いていた雄二郎への気持ちはね、親愛なんだよ。恋情じゃないんだ。」 「でも、僕とよく似てるって、……。」 「うん、姿はね、まあ、一瞬見たら似てるな、くらいだよ。」  荻窪は真っ直ぐに高梨を見つめていた。  声の調子はずっと落ち着いたままで、嘘を言っているようには感じない。 「それに、私は、きみだから。」  荻窪は一旦そこで言葉を切ると、気持ちを整えるようにお茶をひと口飲み込んだ。 「きみだから、──堕ちたんだ。」  あまりにも強烈なひと言を言ったはずの荻窪は、涼やかな顔をして、高梨を見つめる。  沈黙の中、火鉢の木炭がぱちりと爆ぜた。 「きみだから、触れたい。きみだから、抱きしめたい。きみだから、口づけをしたい。きみだから、──抱きたい。」  ゆっくりと、ひと言ひと言を噛みしめるように、そう高梨に告げた。  困ったな、というように頬杖をついた荻窪が、ちらりと高梨を見やる。  真っ赤に染まった頬を隠すこともできないまま、赤裸々に自身の心情を吐露した荻窪を、ぽかんと見ていた。  ちらりと送った流し目は、高梨から見れば恐ろしいほど艶(あで)やかで、押さえつけている欲が見え隠れしている。  荻窪は、自身が抱える欲を充分に知っていながらもなお、高梨の反応を見ていた。無理強いはしたくないから。 「僕は……、雄二郎さんの代わりなんだと思っていたんです。」  おずおずと話し出した高梨の言葉を、荻窪は静かに頷きながら、耳を傾けた。 「先生は、僕を通して雄二郎さんを見ているんだと、そう思っていました。」  高梨の膝の上で手が握りこまれ、小さく震える。 「最初はそれでもいいと思った、でも、僕は欲深くなってしまったんです。」  語尾が少し小さくなって、落ちていく。 「それで、どうしたいと思ったんだい?」  荻窪は先を急がせないように、高梨に問いかけた。 「僕は、先生が──、先生が欲しいと思いました。」  焦がれるほど欲しいと思った、と、高梨は聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう付け足す。  荻窪はそれを聞いて、小さく息を吐き出した。  高梨がそう思ってくれていたことに嬉しく思う気持ちと、やっと本音を聞くことができたことへの安堵。 「高梨くん、今日はうちに泊まっていくかい?」  卓袱台に湯呑みを置いた音が小さく響いた。 「はい。」  高梨もそれに小さく頷いて。  これから起こることは、二人が心の奥に押し込んでいた、恋情を解放することなのか、否か──。  ──春待ちて、影ゆらぐ。

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