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第十八章:其の一:春風に熱き肌添い、夜を編む
雪が解け、道路は歩きにくくはなるものの人々は春に向けて期待が膨らみ、笑みが浮かぶ。もうじき春がやってくる──雪下駄(せった)を鳴らす足元は心なしか浮足立ち、ふきのとうも芽吹く頃。
高梨(たかなし)がどうしても先に風呂に行ってくれと懇願するものだから、荻窪おぎくぼはすでに入浴済みだ。
どうしてそんなに頑なに一番風呂を断ったのか、理解できないまま、荻窪はいつものように、高梨を風呂に送った。
石油ランプに火を灯し、薄暗い部屋で物思いに耽るのはいつものことだ。
いまは高梨を待つ間、書斎にある文机(ふづくえ)に向かっている。特に、何かを書こうと思ったわけではないが、ただ、いつも思考を整理するときは向かう癖がついていた。
原稿用紙を目の前に、万年筆を手の中で弄ぶ。
『愛だの恋だのなんて、所詮自己満足だと思わないか? 康路(やすみち)』
そう言っていた雄二郎に、笑みを浮かべた。
──そうかもな、雄二郎。だが俺は、いまその自己満足のはずの気持ちに振り回されているよ。
心の中で、そう言葉を返す。
そして、それも悪くないと思っていた。
思えばあれは、雄二郎が荻窪に惚れていたからこそ出てきた言葉だったのかもしれない。
文机に向かって座っていた荻窪は、ゆっくりと立ち上がった。
衣桁(いこう)に掛かっている、雄二郎が好んで着ていた濃紺の着物にそっと手を当てる。
「雄二郎、俺はお前のことをいまでも唯一の親友だと思っているよ。だが、高梨くんに惹かれる気持ちだけは赦してくれ。──あの時、自分を止められなかったお前のことが、いまなら分かる。答えてやれなくて、すまなかったな……。」
そうして、衣桁(いこう)からその着物を取り外した。丁寧に畳み、出窓に置いていた写真のない写真立ても手に取って、私室の廊下を挟んだ斜め向かいの部屋へ持っていく。そこは、かつて雄二郎が好んで使っていた部屋であり、気に食わないと言っては使わない着物を仕舞う行李があった。
荻窪は、誰も使わなくなって久しい文机の上に、その着物をそっと置く。
押し入れを開けて、使われていない行李を探すと、そこに濃紺の着物を一着だけ丁寧に仕舞った。
押し入れの襖を閉めながら「雄二郎、さようならだ」と低くつぶやく。
書斎に戻る途中、私室に寄って布団を敷いてみたが、なんだかこれはこれで生々しさが際立った。
手慣れないことをするものじゃないな、と荻窪は熱くなる頬を、額に手を当てて誤魔化す。
書斎に戻るとそこには高梨が、荻窪自身が高梨のために買い入れた寝間着を身につけて、衣桁の前に座り込んでいた。
なにもなくなっている衣桁を見上げ、なにかを考えているよう見える。
ふと、高梨が荻窪に気がついてこちらを向いた。
「先生、ここの着物はどうされたんですか?」
躊躇いがちに問われた荻窪は、ただ、小さく笑う。
なんて答えようか、そう僅かな間に考えて、「外したんだ」とまずは事実だけを伝えた。
「雄二郎には、眠ってもらうことにしたんだよ。」
高梨の隣に膝を付くと、一緒に衣桁を見上げる。
もう十年は、ここにいたのだからそろそろ眠らせてやってもいいだろう。
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