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第十八章:其の四:春風に熱き肌添い、夜を編む
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「にゃっ! にゃあっ!」
ちびがいつものように暴れまわっている。高梨が居なくなってからの恒例行事とでもいうのだろうか、毎日のように、ごはんの時間になると騒ぎ出すことが日課になっていた。
「ちび、なにを騒いでいるんだい?」
そんな高梨の声に、ちびの動きがぴたりと止まる。苛ついて噛みついていた座布団をぽたりと放し、途端に「猫をかぶった」ように、大人しくなると嬉しそうにすり寄っていった。
障子の影からそれを見ていた荻窪は、ちびも高梨の不在に寂しさを感じていたのだろうと頷いた。ちびはああ見えて、高梨が大好きだったから。
荻窪のことは、「居て当たり前、世話をしてくれて当たり前」の認識であることに対し、高梨は「居ない時もある、でも、居ることが多い」という認識だったのだろう。
それが突然来なくなったことで、ちびも不安定になっていたのだろうと、荻窪は予測した。
高梨に抱きかかえられたちびが、荻窪を見つけて得意げな顔をしてみせる。
まるで「あたち抱っこされているのよ、羨ましいでしょ」とでも言いたげな顔だ。つまりいままでごはんのたびに暴れていたのは、荻窪が高梨を追い出していたから、高梨が居なかったんだという認識を持っているということなのだろうか。
「ちびや。お前、そんなに高梨くんが好きなら、お願いしてごらん。ここで一緒に暮らそうって。どこにも行かないでここに居て、とね。」
さて、そんなことを言われた高梨はといえば、ちびを抱えたまま固まった。
まるでちびの口を借りた荻窪からの、「一緒に住まないか」という提案のように聞こえてしまう。
荻窪は高梨の両肩に手を置くと、耳元に口を寄せた。
「いますぐじゃなくていい。考えてみてくれるだけでもいいんだ。」
断る逃げ場を優しくふさがれて、高梨は頬を真っ赤に染め上げる。ちびの真っ白な毛並みとは真逆の紅さになるその頬を、そっと手のひらで撫でてから「座っていなさい、私がやるから」と言い置いた。
それからしばらくの間、荻窪がちびのごはんの支度をしていても、高梨に茶を淹れて置いて行っても、ちびは高梨にしがみつくように抱きついて、離れなかったのは言うまでもない。
「ねぇちび? 僕が居なかったとき、先生はどうしていたんだい? 寂しそうだったかい? それともいつもと変わりなかった?」
小さな問いはちびの耳をぴくりと動かすだけに留まった。玻璃(はり)のような青い瞳が高梨を見上げ、小さな声で「にっ」と鳴く。それは、はい、とも、いいえ、とも取れる短い鳴き声ではあったけど、真っ直ぐな青い瞳は嘘がない。
「……それは私に聞くべきじゃないかな、高梨くん。」
くつくつと低く、喉の奥で笑う荻窪が、ちびのごはんを用意して居間に戻ってきた。
「ちび、ほらおいで。まさか、高梨くんの膝の上でごはんを食べる気ではないだろうね。」
荻窪がちび用の小さくて低い台の上にごはんの容器を置くと、仕方ないと言わんばかりにとてとてと歩いてくる。
「私はね、きみが居なくなってから、同じように生活をしていたよ。だたね、きみが居た時のように見えていた色が、分からなくなっていた。この家はもともと色彩があまりないだろう? だから気が付かなかったけど、ちび以外は全部、色あせて見えていたんだ。昨日、きみがこの家に入ってから、私には色が戻った、そう思えたよ。」
ちびがはくはく、とごはんを食べる音に重なって、静かにそう荻窪は吐き出した。色のない世界で生きていた、それは自分でも気が付かないうちに灰色の世界に張り込んでいたからだろうか。
「ありがとう、高梨くん。」
ちびに視線を落としたまま、荻窪がそう、静かにつぶやいた。
「僕こそ……、先生が僕に気が付いてくれて、手を取ってくれて……ありがとうございます。」
高梨の瞳から涙が零れ落ちる。本人も頬を滑り落ちる涙に気が付いて、慌てて拭った。
荻窪は高梨の頬に伝う涙を親指で拭うと、「もう無理しなくていい」そう、低く囁いた。
泣くことを我慢しなくていい、無理に笑わなくていい、嬉しいときは笑っていい。
「私は、きみの本心のありのままの、その姿に惹かれているんだから。」
そう言って、高梨の両頬に手を当てた。
お互いの額を合わせて、ゆっくりと目を閉じる。
「ありのままのきみで居てくれ。」
低く告げられたその声は、まるで祈りのようだった。
──春風に熱き肌添い、夜を編む。
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