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第十九章:其の一:外伝一章 幸代の場合
近所のおにいちゃん、という立ち位置が一番合ってる高梨(たかなし)という青年はいつも朗らかで、だれに対してもとても親切だ。
もちろん、この高梨よりもやや幼い少女にも親切にしてくれる。彼はいつも笑顔でいる人で、周りにいる人たちをほっとさせてくれる雰囲気があった。
少女の初恋だと思う。彼が二十半ばの青年であり、しっかりとした大人の男性なのに、どこか柔和に見えるのはその容姿のせいかもしれない。
彼女はその、彼の柔和な笑顔が好きだった。
道端で偶然会ったとき、彼はどこか浮足立った雰囲気で少し急ぎ足だったように思う。
思わず声をかけてしまったのは、少し急いでいる姿にも関わらず、そわそわしているようにも見えたから。
「これからどこかへ行くの?」
そう背後から声をかけた彼女に振り返ると高梨はいつもとは少し違う笑顔で。
「これから作家の先生のところに行くんだ、きっと締め切り前なのに原稿用紙は真っ白だよ。」
困ったような、どこかうれしそうな笑顔を浮かべた。
「作家の先生? いつもあの、怪談を書くっていう、あの?」
そう質問を返した彼女に高梨は彼女のほうを向くわけでもなく、ただ歩く先を見ながら答えた。
「そうだよ、あの作家の先生だよ。──さっちゃんも会ってみたいのかい?」
さっちゃん、というのは彼女のあだ名のようなものだ。幸代、これが彼女の名前だった。
幸代は高梨が抱えてるものにふと視線を向ける。それは普段確かによく見る日常の、主婦が持つような──実際、幸代の母も幸代もよく手に持っているような──食事を作るための材料だった。
「ねぇ、作家の先生のとこに行くのに、どうしてそんなに食材を持っているの?」
持っていけば誰かが作るということなのか、それとも高梨自身が作るのか。幸代は不安げに彼の横顔を見上げた。どうしてそんなに尽くすのか、と問いかけるように。
その問いかけに高梨はつい、と幸代のほうへと視線を向ける。
「作家の先生が作るわけないよ、僕が作るんだ。あの人は自分でそんなことできるはずもないからね、きっと包丁で指を切って、もう今日は原稿が書けないよ、なんて言い訳をするに決まっているし。」
と、なにかを想像するように、高梨がくすりと笑う。その微笑は到底困った人が見せるものではないのに、言葉では「困った人なんだ」と付け加える。
幸代の胸が、どきりと波を打った。ここでなにか言わなければ高梨はそのまま自分を置いて行ってしまうだろう。
「ねぇ、それ、私が作ろうか? もし、よかったらたまには違う人が作った料理もいいかなって……思って……迷惑じゃなかったら……。」
そう声を出してしまってから、踏み込みすぎたか、と心配げに高梨を見上げた。高梨はわずかに考えるかのように幸代から視線を外し、すぐにまた視線が幸代へと戻ってくる。
「ありがとう。それじゃ、頼もうかな、家はそんなに遠くないんだ。だから遅くならないようにだけ、気を付けてね。」
と言って、にこりと笑った。
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