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第十九章:其の二:外伝一章 幸代の場合
作家の先生の家についてすぐ、高梨は無遠慮に玄関を開けて大きな声を出す。
「先生、荻窪せんせーい! 高梨です、いらっしゃいますよね?」
家中に響き渡るかと思うほど大きな声に、幸代は思わず耳を両手で覆い隠した。少し大きなこの家中に響くくらいの大きな声に幸代は思わず肩をすくめる。
高梨がこんなに大きな声を出せる人だったなんて思わなかった。その声のあと、どこかの部屋からゆったりとした低い声が聞こえてくる。
「高梨くん、相変わらずだね……おや、今日は一人じゃないのかい?」
のそりのそり、大きな体躯をゆっくりと揺らしながら、「荻窪」と呼ばれた作家先生が姿を見せた。幸代は作家先生というだけあって、繊細な印象を思い浮かべていたが、まるで真逆の大きな大きな、しかも茫洋とした男が出てきて驚いてしまう。
そのあとを白くてかわいい猫が赤い結び紐を靡かせて、とたたた、と走ってきた。
「ああ、ちび、ただいま。」
ちび、と呼ばれた白猫は「んにゃ!」と鳴いて、高梨に抱き上げられる。
「先生、こちら、僕の幼馴染の幸代さんです、今日は夕飯を作ってくれるっていうから、お連れしましたよ。」
迷惑か迷惑じゃないかはそこには含まれない明朗さがそのまま、荻窪へと受け渡されて、その荻窪はといえば、切れ長の瞳を少しだけ見開いてから幸代をしげしげと眺めた。
「──ああ、あの幸代さんか。ありがとうね。お台所へは私が案内しよう。二人ともゆっくりしていっておくれ。」
柔和な笑みを浮かべて招き入れてくれる姿は、怪談を書いているなんて思えないほど。穏やかで温かくてそれでいて大人の雰囲気でさえある。
あの「幸代」さん、という言い方はどこか含みがあるようにも感じられたが、幸代は高梨をちらりと見上げた。
しかし、肝心の高梨はそんな幸代には気がついていないようで、ちびを抱きかかえたまま少し後ろを歩く。
「自己紹介がまだだったかな、私は荻窪、高梨くんの言葉通り作家をしているんだ。──売れている作家ではないからきみが知らなくても当たり前だがね。」
声は優しく低く響く。むしろ、落ち着きさえ感じさせ、幸代に一瞬の安堵さえ感じさせた。私はここにいても大丈夫なんだ、歓迎されてよかった、そう思わせる温かさでもあった。
「ここがお台所だ。……私も一緒に茶を入れてもいいだろうか?」
使う人があまりいないという雰囲気を感じさせる台所は、彼がほぼ炊事をしない男だと思わせるには十分だった。
台所の水場に横並びに列んだ幸代は、荻窪が見た目以上に大柄であり、そして威圧的な存在であることに気がついた。顔が見えない雰囲気だけの存在になるとこんなにも変わるのか、と、手が震えそうになる。
「幸代さん、食事を作る前にお茶をひとつ飲んでからにしないかい? さすがにね、私も、客人に茶の一つも出さない男ではないんだ。」
笑いを含んだ声は静かに響く。幸代はその声ひとつで荻窪が持つ多彩な面がまた、ひとつ増えた気がした。
幸代の前で湯を沸かし、茶器を用意する荻窪の手は淀みがない。自然と身についた誰かの為に茶を注ぐという一連の動作は、さすがに身についているものなのか、と幸代は思う。総じて全てを高梨が引き受けているものでもなくて、何処かでホッと肩を撫で下ろした。
荻窪は茶器に茶を注ぎ終わってから、す、と幸代に視線を向ける。
「きみは、緑茶は飲めるかな? 聞く前に入れてしまってね。」
申し訳なさそうに寄せられた眉はやや八の字。幸代はいつの間にか肩に入っていた緊張を解くようにそっと息を吐き出した。
「大丈夫です、緑茶、飲めます。」
そう答えて荻窪を見上げたとき、彼の視線は居間へと、高梨の居る居間へと向けられていた。
荻窪がお盆を持つと、その盆は見た目以上に小さく見える。まるでおままごとの道具のようだ。幸代は先回りして居間への障子を開けて、荻窪がまっすぐに進めるように通路を開けた。
「先生! お茶を持っていらしたんですか? 僕を呼んでくれたら良かったのに。またお茶がかかって火傷したから書けなくなったなんて言い出したら困りますからね。」
高梨は珍しくお盆を手に台所から居間へと姿を現した荻窪にそう、慌てて声をかけて立ち上がった。そしてその手はそのまま荻窪からお盆を受け取り、居間の中で存在感を放っている重厚な卓袱台(ちゃぶだい)の上にことりと置いた。
「さっちゃん、こちらに来て座ってお茶を飲んで一息ついて。」
座布団を引っ張って幸代の座る場所を作った高梨は、ぽんぽんとそこに幸代を呼んだ。幸代はそれに対して「うん、ありがとう」とお礼を言いながらゆっくりと座り、それと同時に、高梨がずいぶんこの家に慣れているんだな、とも思った。
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